2012年4月24日火曜日

沖縄の本土復帰とは

沖縄のことを理解するには、沖縄の人同士が話し合っている文章を読むことが大切である。沖縄の新聞で、琉球大学沖縄国際研究所教授の「喜納育江」サン(45歳)と、沖縄、西表島出身の作家「崎山多美」(57歳)さんとの往復書簡が「琉球タイムス」に載っていた。その中で崎山さんの言葉が印象深い。以下はその一部。

私が個人的にも人生のエポックと感じてきた「復帰」について、1967年生まれでアメリカ先住民の文学を研究する喜納さんと、紙面で対話をする機会があることに、深い感慨を覚えています。
「復帰」時に5歳だったという喜納さんの中では、「復帰」を挟む時代の荒々しい変化は記憶に残らない出来事で、気がついたら日本国民として生活し教育を受けていた、ということなのかもしれませんね。「復帰」という時代の変わり目を、高校2年のときに体験し、その翌年に琉球政府立から日本政府立に変わった琉球大学に入学した私とは、記憶のあり方に大きな違いはあるのかもしれません。
けれど、時代を検証する際、その現場に居合わせたというだけで特権的に出来事を体験したと考えてしまうのは、硬直した考えに陥ると私は思っています。「原体験」は出来事の検証にとって重要な要素にはちがいありませんが、原体験を体験として身体化するためには、現在の時間の中で過去の体験の意味を意識化する思考の持続力が必要だからです。その意味で、「復帰前後」をつなぐ言葉を世代の異なる喜納さんと交わすことで、私にとっての「復帰体験を意識化し直すことはとても大切なことだと感じています。
さて、「コザ(現沖縄市)という場所であの日を迎えた」私にとって、「復帰」はどのような出来事だったか、ということですが、コザは、沖純が米軍占領下にあることをいやでも思わせる、米兵の閲歩する基地のマチでした。とくに私の住むコザ十字路界隈は黒人街と言われ、米兵同士の間でも白人との人種差別が露骨にあった繁華街で、彼等が落とすドルで生活をしている人々が大勢いる場所でもありました。米兵同士の暴力沙汰の現場や痕跡を目撃することは度々で、「復帰」の3年前に離島からコザに越してきた私にとって、コザは、ちょっと怖いマチでした。
そのコザを私の住む場所だと少しずつ思い始めたころ、「復帰」運動の盛り上がりの中、沖縄の日本「復帰」はやってきました」。「復帰」運動は米軍の沖縄への差別的支配から脱するために必要だったという言い方があって、その考えを私は全面的に否定することはできませんが、声にならない違和感を覚えていたことは確かです。私が在籍していたコザ高校では「復帰」をテーマにした討論会は頻繁で、熱心な先輩や同級生から意見を求められることも度々でしたが、口ごもって返事をごまかしていた気がします。
ですから、私があのころ「復帰」をどのように理解していたか、という明確な言葉は残念ながらありません。ただ、あの5月15日に私の取った次の行動は、今になって思えば、声にならなかった私の違和感が衝動的に行った「身体表現」だったという気がしています。あの日私は、どしゃぶりの雨の申、「復帰反対」を掲げる旗の下に集まる人々に交じって、与儀公園の隅にひとり立っていた。そのことは、私が沖縄で生きる自分を考えるとき、どうしても消すことのできない記憶のシーンです。
この書簡は3回にわたって連載されている。私がここで考えることは、沖縄の人にとって、本土復帰が本当によかったのかということである。もちろん米軍に占領されたままでよいわけがない。琉球政府という選択肢があったら・・と考えてしまう。琉球の言葉、文化がどんどん忘れ去られてしまうのではないか・・。沖縄の足場はどこにあるのか・・。

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