2012年6月27日水曜日

置かれた場所で咲きなさい

「置かれた場所で咲きなさい」(渡辺和子)という本が、売れているようだ。ジュンク堂では、目立つところに置かれていた。立ち読みして、「はじめに」のところを読んだら、自分と似たようなことを考えているなと思い、購入した。以下、「はじめに」の部分である。
はじめに
修道者であっても、キレそうになる日もあれば、眠れない夜もあります。そんなすべ時に、自分をなだめ、落ち着かせ、少しだけでも心を穏やかにする術を、いつしか習いました。
三十代半ばで、思いがけず岡山に派遣され、翌年、大学学長に任命されて、心乱れることも多かった時、一人の宣教師が短い英詩を手渡してくれました。Bloom where God has planted you.(神が植えたところで咲きなさい)
「咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と続いた詩は、「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」と告げるものでした。
置かれたところで自分らしく生きていれば、必ず「見守っていてくださる方がいる」という安心感が、波立つ心を鎮めてくれるのです。
咲けない日があります。その時は、根を下へ下へと降ろしましょう。この本が、読む方の心に少しでも和らぎをもたらすようにと願っています。
私は、宗教は好きではないが、宗教を信じている人を押しなべて嫌いということではない。彼女は修道者であって、なかなかの人格者である。

2012年6月25日月曜日

眼にも留まらぬ政治

 毎日新聞の解説委員の山田孝男氏は「風知草」という評論の中で、「原子力規制委員会設置法」の隠れた真相を暴露している。「眼にも留まらぬ政治」と題して以下のように述べている。
 原子力規制委員会設置法

増税3党合意の陰で原子力基本法」が書き換えられた。核武装に含みを持たせたと取れる文言が加筆された。別の法律の付則で基本法改定を決めてしまという姑息な形で。
このやり方に驚いているのは反核運動家と脱原発派だけではない。体制立て直しを探る原発推進派の間にも批判が広がっている。こんなやり方で信頼を取り戻せるはずがない。
問題の法律の名は「原子力規制委員会設置法」という。なにしろ速かった。民自公3党の修正合意を経て法案が国会に出たのが15日。成立が20日だ。原発再稼働をにらみ、規制委の発足を急いだわけである。
その法案に基本法の改定条項が埋め込まれていることが公になったのは、法案成立当日、20日の参院環境委員会で、民主党の議員が「狙いは核武装か」と質問したことによる。
質問者は「議案を渡されたのが15日。修正部分の新旧対照表もなかった」と嘆いた。改定は自民党主導だが、3党合意直後の14日夕、自民党の合同部会で配られた法案要綱に焦点の文言は見えない。同党政調のベテランも「どういう経緯かわからない」と首をかしげた。
日本核武装の布石ではないかと疑われた文言とは何か。基本法2条(基本方針)に、こう書いてある。原子力の研究、開発及び利用は平和目的に限り「民主、自主、公開」の3原則に基づいて進める(大意)。その2条に第2項を加え「安全保障に資することを目的として」という文言を織り込んだところが条文修正のミソである。
「安全保障」とは何か。20日の参院環境委でそこを聞かれた自民党の提案者は核武装の意図を否定し、こう答えた。「原発の安全、軍事転用を防ぐ国際原子力機関(I AEA)の保障措置、原発テロの防護を規制委に一元化することです」
東京新聞が21日朝刊1両トップで「原子力の憲法、こっそり変更/軍事利用への懸念も」と大きく報じた。テレビも伝え、韓国外交通商省の副報道官が「注視している」と反応したというのが週末までの情勢だ。
自民党からこの案が出たことは驚くに当たらない。戦後、日本核武装への期待を非公式に語った政治家、官僚はいくらでもいる。表向きは非核の理想を掲げつつ、いつでも持てる「潜在的保有国」であることが経済大国の心の支えだった。
では、暗黙の了解だった「潜在的核保有国」の自負を表に出す理由は何か。旧知の官僚の解説を興味深く聞いた。
「六ヶ所村(の核燃料再処理工場=青森県)でしょう。脱原発が進めば、あの施設は意味を失う。核物質の軍事転用に備えるという意義を法律に入れておけば存続可能です。そう考えた自民党の議員と、手伝った役人がいたと思いますね」
そんな立法が、基本法を正面から諭ずることなく、関連法の付則で決まった。先の官僚の慨嘆、傾聴に値する。
「付則による関連法改正というのは、ある法令を変えると必然的に他の法律も変えざるえない時にやるもので、今回は趣旨を履き違えている。法的には有効ですが、まったく不適切な立法だと思いますね」
原子力基本法は自民党が生まれた1955年にできた。それから57年。事態は、「民主、自主、公開」の3原則にますます逆行している。
  「社会保障と税の一体改革」と同じように、一見まともに見える「法案」は注意して見る必要がある。

2012年6月19日火曜日

未熟型うつ

最近なぜか盛り上がりを見せる「新型うつ」「現代型うつ」論争。「うつ病とは違うのだから別に考えるべき」、「安易なレッテルだ」と異議を唱える専門家が多いのだが、話題になるのは、それだけ多くの職場で問題になっているからともいえる。産業精神医学の専門家、心理学の第一人者、松崎一葉(筑波大学教授)の話を以下に紹介する。
私は、新型うつ、現代型うつと言わず、未熟型うつと言っている。なぜか。現代型とか新型と言うと、マスコミ受けはいいかもしれないが、「俺って現代型うつでさ」と、自慢したりその状態に安住する人が出てくるからだ。未熟型うつとすれば、「俺って未熟なんだよね」と自慢しにくい。
未熟というのは、人格が成長する過程において、何かが欠落して止まっている状態。だから、本人が理不尽な思いをしたり、もまれる経験をするなど、それまでに欠落していた体験を補完していくと、「一皮むけて大人になった」感じになる。
職場における未熟型うつに対しては、すでに企業ではメンター、ブラザー、エルダーといった制度の下で、先輩が後輩の指導をするシステムがある。これを活用するといい。
若い社員にとってみると、先輩とは、自分と同一化できるぐらいの年の差であることがポイントだ。一般的に治療は精神科医がするものとされるが、未熟型は医学的な治療だけでは治らない。成長支援をするメンター的存在がいて、周囲が支援する構造が大切になるだろう。
うつ病は昔からあるが、職場のストレスでうつになる人は少なかった。現在は、適応障害の結果としてうつ状態にあるというものが多い。
人は、一生懸命努力して、それが何らかの形で報われれば、その努力はストレスにならない。努力と報酬のバランスが取れていないと、適応障害になりやすくなる。
若者のはうがまともな部分もある
それを防ぐには、仕事の過程を含めて褒めることだ。そうすれば、モチベーションがアップする。企業の経営者には、金銭などでのインセンティブが少なくなっているからこそ、ほかのインセンティブをどうするか、真剣に考えてほしい。従業員を重要なステークホルダーとして認識し、CSR (企業の社会的責任)の一環として、従業員のメンタルヘルス対策をとらえてはどうか。
日本には滅私奉公をよしとする風土がある。しかし、今の若い人たちは、努力してもそれに見合う報酬をあまり得られないという実態を見ているため、最初から滅私奉公的な努力をしようとはしない。そういう若者に対して、「変だ」「根性がない」「努力しない」という批判の声もあるが、実は、若者のほうがまともじゃないのかという気もする。
適応障害で2年も休んでいた若者が、東日本大震災のボランティアに行って働いている姿を見たりすると、彼らにとっての報酬は、会社の中でスキルを磨き、そこそこの賃金をもらうことではなくて、社会や人の役に立つことだということがわかる。企業も、そういった若者の変化を読み取る必要があるだろう。(東洋経済)
私も「新型うつ」という言葉になにか、違和感を感じていた。「未熟型うつ」の方が、しっくりくる気がする。
解説 メンター:手本となる人、師匠
    ステークホルダー:利害関係者、そのグループからの支援がなければ、存続しないようなグル

ープ

2012年6月14日木曜日

TPP

 全国革新懇ニュースに載っていた記事で、エジプト生まれのタレント「フイフイ」さんが、TPP問題についてのインタビューがわかりやすくていい。一部を紹介する。

崩される社会システム
日本の環太平洋連携協定(TPP)への参加に警鐘を鳴らしていますね。
日本の国は「経済が活性化します」とだけ言ってTPPの中身をちゃんと発表していません。私はアメリカに留学していました。アメリカはもうけることしか考えていないし、TPPもその一環です。
TPPに参加すれば遺伝子組み換えや農薬、添加物など日本の規制基準を満たさない食品がアメリカからどんどん入ってくる。
東北の農産物を「食べて応援」と言いながら、TPPに参加しようという(日本政府の)姿勢は非常に矛盾します。国が放射能の値をちゃんと発表しないため、東北の農家はすごく不安を抱えていし、TPPで米やいろいろな食品が自由化されたら、ダメージは大きいでしょう。
日本がずっと守ってきた国民皆保険も自由化されてアメリカのようになってしまう。アメリカでは虫歯一つ治すのに10万円をくだらないですよ。薬事法(医薬品や医療機器に関する法律)も規制がゆるくされて、日本人には強すぎるアメリカの薬を使わせられると思います。国民の健康を守る国の義務を、完全に放棄していますよね。
労働者も流入する。著作権などもフリーになり、「日本のものはアメリカのもの」という状態に変わるのでは思います。日本は丁寧とか時間を守る、正直など、独特のきっちりした生き方のなかで平等の社会システムをつくってきた。それが「貧しい人は死んでください」というアメリカの弱肉強食の制度で崩されてしまいます。
若者は政治を知りたい
日本政府はTPP交渉で日本に有利な枠組みをつくると言っています。これまでの外交を見ても、対等に交渉できたことがありますか。アメリカのいいなりですよね。自信があるなら、なぜ沖縄の普天間基地問題はうまく解決できないの。
政治に無関心にさせられると、国のやりたい放題になってしまいます。日本と同じ親米政権だったエジプトでは、国民が食べることもできない、大学を出ても職がない状況が長く続いて、昨年2月、革命が起きました。
日本の報道は欧米からの情報ばかりです。私がアラブ側からみる「アラブの春」(中東の民主化運動)やエジプト革命をブログに書くと、若者から「かっこいい」「日本の将来をみているみたい」「日本人はどうしたらこういうことができますか」など'たくさんのメッセージがきて励まされました。日本の若者は政治や世界の動きを知りたいとどん欲です。
社会が良くならなければ、自分の生活だって良くならない。だから将来のことを考えるとき、自分の将来だけではなくて、大きな枠で考えないといけない。
日本に限らず若者は、大人のやっていることに疑問をもっています。資本主義が世界を支配し、日本も資本主義ですが、「理不尽だよな」「不公平だよな」と純粋な疑問をもっている。良い刺激を受ければ、いくらでも力を発揮します。

物事を見る眼は、一面的では掴めない。日本政府の行動が、アメリカからだけでなく、中国からみたらどうなのか、ロシアからみたらどうなのか、アラブからみたらどうなのか・・。身近な問題では、弱者からみたら、今の社会保障はどうなのか・・。違った視点で考えることを習慣付けることが、重要だ。

2012年6月11日月曜日

在日・アイデンティティー

中公新書「在日韓国・朝鮮人」福岡安則著を読んだ。著者が大学で教えながら、在日二世、三世と呼ばれる人々の聞き取り調査をしたことをから、「在日問題」を分析している本である。あとがきの一部を紹介する。

同一が平等ではない。ぼくが言いたいのは、差別するな、区別をしてくれ、ということだ。同質化をめざすのが解放だと思い違いをしている人が多い。区別される勇気、区別する勇気が、いま必要なんじゃないかな。だって、ひとりひとり、生きる条件や内的世界はみんな違うのだから。
これは、私が最初に知り合った在日朝鮮人の友人、金幸二(キムヘンイ)氏の言葉である。金幸二氏との出会いは、ある出版社の仕事を通じてであった。1980年のことだ。当時、彼は、「(在日)を生きる者たちから」という副題をもつ季刊ちゃんそり』という雑誌の編集部の一員であった。「ちゃんそり」とは、朝鮮語で「ぐち、たわごと」を表す言葉だという。金田幸二という通名は捨てて、本名ひとつで生きているという彼の語りで印象に残ったのは、一言でいって、「ちがいがあって何が悪いのか」というものであった。
いまの社会、人種差別・民族差別がなくなってきたとはいえ、まだまだ残存している。日本において、朝鮮人に対する差別はずいぶんと大きいのである。その日本に、朝鮮人として、私が住んでいるのです。朝鮮人といっても、私は日本で生まれ、日本で育ち、日本語しか話せず、日本でしか生活できません。外見も中身も他の人と変わらず、ただ違うことといえば、受験などの履歴書の本籍の欄に、“韓国”と小さく書かなければならないということだけです。私自身の違いはそれだけなのです。けれども、社会は、そう見てくれません。なぜ、朝鮮人は嫌われるのでしょうか。こんなにも日本を愛している私が、なぜ、外国人として、差別を受けなくてならないのでしょうか。誰か教えてください。私の居場所を探してください。これは、短期大学を担当した時の韓国籍の女子学生が書いたものである。
私の息子が小学生、中学生の時、在日韓国人の同級生と仲がよかった。子どもがその友達の家に遊びに行った時、私に「お父さん、○○くんの家の中は、なんとなくうちと雰囲気が違うよ」と言ったことを思い出した。その時、息子は彼が在日韓国人と知っていたかどうかも確認しなかった。彼は日本名を名乗っていた。私は、なんとなくうわさで知っていたが・・・。息子と話をしなかったことが悔やまれる。

zainiti

中公新書「在日韓国・朝鮮人」福岡安則著を呼んだ。著者が大学で教えながら、在日二世、三世と呼ばれる人々の聞き取り調査をしたことをから、「在日問題」を分析している本である。あとがきの一部を紹介する。

同一が平等ではない。ぼくが言いたいのは、差別するな、区別をしてくれ、ということだ。同質化をめざすのが解放だと思い違いをしている人が多い。区別される勇気、区別する勇気が、いま必要なんじゃないかな。だって、ひとりひとり、生きる条件や内的世界はみんな違うのだから。
これは、私が最初に知り合った在日朝鮮人の友人、金幸二(キムヘンイ)氏の言葉である。金幸二氏との出会いは、ある出版社の仕事を通じてであった。1980年のことだ。当時、彼は、「(在日)を生きる者たちから」という副題をもつ季刊ちゃんそり』という雑誌の編集部の一員であった。「ちゃんそり」とは、朝鮮語で「ぐち、たわごと」を表す言葉だという。金田幸二という通名は捨てて、本名ひとつで生きているという彼の語りで印象に残ったのは、一言でいって、「ちがいがあって何が悪いのか」というものであった。
いまの社会、人種差別・民族差別がなくなってきたとはいえ、まだまだ残存している。日本において、朝鮮人に対する差別はずいぶんと大きいのである。その日本に、朝鮮人として、私が住んでいるのです。朝鮮人といっても、私は日本で生まれ、日本で育ち、日本語しか話せず、日本でしか生活できません。外見も中身も他の人と変わらず、ただ違うことといえば、受験などの履歴書の本籍の欄に、“韓国”と小さく書かなければならないということだけです。私自身の違いはそれだけなのです。けれども、社会は、そう見てくれません。なぜ、朝鮮人は嫌われるのでしょうか。こんなにも日本を愛している私が、なぜ、外国人として、差別を受けなくてならないのでしょうか。誰か教えてください。私の居場所を探してください。これは、短期大学を担当した時の韓国籍の女子学生が書いたものである。
私の息子が小学生、中学生の時、在日韓国人の同級生と仲がよかった。子どもがその友達の家に遊びに行った時、私に「お父さん、○○くんの家の中は、なんとなくうちと雰囲気が違うよ」と言ったことを思い出した。その時、息子は彼が在日韓国人と知っていたかどうかも確認しなかった。彼は日本名を名乗っていた。私は、なんとなくうわさで知っていたが・・・。息子と話をしなかったことが悔やまれる。

2012年6月6日水曜日

能弁と雄弁

「総研いのちとくらし」の中で、二木立氏の「ニューズレター」の最後に私の好きな名言・警句がある。その中で紹介されていた山田孝男氏が「週刊エコノミスト」で書いている文章で、「能弁と雄弁」の違いを言っているところを紹介していたので、エコノミストからそこの部分を探した。以下に記す。
 【週刊エコノミスト 5月1・8日合併号】
 ◇山田孝男(やまだ・たかお=毎日新聞政治部専門編集委員)
 映画のサッチャー(メリル・ストリープ)が英国議会の党首討論で雄弁をふるうのは、1982年、フォークランド戦争に勝利した直後、野党にあらためて団結を呼びかける場面である。バックベンチャー(サッチャーの背後の一般議員席)がどよめき、沸き立つ−−。
 イギリスの2大政党制に憧れた日本が国会で党首討論を始めたのは99年11月7日だった。最初の取組は凡人・小渕恵三(当時首相、自民党総裁)と宇宙人・鳩山由紀夫(同民主党代表)。「朝食にピザ(=小渕のあだ名が「冷めたピザ」)を食べましたか?」という鳩山の寒いジョークしか覚えていない。
 以来、延べ58回の党首討論が実施された。首相も反問する論戦型が定着したと言えなくもないが、それによって前より国会論戦の質が上がったという実感はない。上滑りする論戦は2大政党の液状化と党首の力不足を映し出している。
 ◇放置される公約違反
 そこで野田佳彦首相である。この人の演説、答弁を聞くたびに思うのは「能弁」と「雄弁」の違いということである。「能弁」は「弁舌の達者なこと」(広辞苑)をいう。「雄弁」は「人に感銘を与える、巧みで力強い弁舌」(同)。
野田首相の言葉は常に乱れず、滑らかだが、聞く者に感銘を与えない。つまり、能弁に過ぎない。要するに弁が上滑りをするのだ。

2012年6月4日月曜日

やる気と能力

東洋経済に佐藤優氏が連載している「知の技法」「出生の作法」と言う、外交官時代の経験をもとに、書いている文章は、畑は違うが参考になることが多い。その中の一節を紹介したい。
中間管理職にとって、部下に関してはある程度選ぶことができるが、上司を選ぶことはできない。人間には波長がある。波長が合わない人と一緒に仕事をすることは苦痛だが、折り合いをつけるしかない。人間の感情は相互的。こちらが「嫌だな」と思っているときは、相手もこちらについて良い感情を抱いていない。こういう人と接触が増えると、それだけ摩擦熱が生じるので、できるだけ距離を置いた関係で人事異動を待つのが、現実的方策である。さて、これらの好き嫌いを別にして、部下でも上司でも、やる気と能力の組み合わせで、以下の四つのタイプに分かれることを押さえておく必要がある。
第1型‥やる気も能力もある。
第2型‥能力はあるが、やる気がない。
第3型‥やる気はあるが、能力がない。
第4塑‥やる気も能力もない。
やる気も能力もあるという第1型は、大体どの組織にも2割程度いる。こういう上司の下だと中間管理職としては働きやすい。またこういう部下は、中間管理職の期待に応えてよい仕事をしてくれるため、基本的に扱いやすい。
最も有害なのは、第4型のやる気も能力もない人ではなく、第3型のやる気はあるが能力がない人だ。しかも当事者は、能力がないという現実を直視しょうとしない。だから暴走する。そのためにただでさえ複雑な事態が一層複雑になる。こういう部下に対しては'たとえば公的な試験(外交官ならTOEFLかIELTS)を受験させ、客観的データによって、自分の能力を自覚させることが、効果がある。
いずれにせよ第3型の場合、当人の性格によるところが大きいので、矯正は難しいというのが筆者の経験則だ。もっともこういう人は、50-100人に1人しかいないため、部下でいる間に暴走しないように注意し、できるだけ早く異動させるというのが、現実的対応だと思う。幹部が第3型の場合、上司の思いつきに振り回されず、中間管理職が自分の頭で上司の指示を取捨選択することで、難を避けるしかない。
一番厄介なのは、第3型の「やる気はあるが、能力がない」はなるほどと思う。他は対応の仕方が簡単だが、第3型は対応に困ることが多い。自分への戒めとしたい。