2012年6月11日月曜日

在日・アイデンティティー

中公新書「在日韓国・朝鮮人」福岡安則著を読んだ。著者が大学で教えながら、在日二世、三世と呼ばれる人々の聞き取り調査をしたことをから、「在日問題」を分析している本である。あとがきの一部を紹介する。

同一が平等ではない。ぼくが言いたいのは、差別するな、区別をしてくれ、ということだ。同質化をめざすのが解放だと思い違いをしている人が多い。区別される勇気、区別する勇気が、いま必要なんじゃないかな。だって、ひとりひとり、生きる条件や内的世界はみんな違うのだから。
これは、私が最初に知り合った在日朝鮮人の友人、金幸二(キムヘンイ)氏の言葉である。金幸二氏との出会いは、ある出版社の仕事を通じてであった。1980年のことだ。当時、彼は、「(在日)を生きる者たちから」という副題をもつ季刊ちゃんそり』という雑誌の編集部の一員であった。「ちゃんそり」とは、朝鮮語で「ぐち、たわごと」を表す言葉だという。金田幸二という通名は捨てて、本名ひとつで生きているという彼の語りで印象に残ったのは、一言でいって、「ちがいがあって何が悪いのか」というものであった。
いまの社会、人種差別・民族差別がなくなってきたとはいえ、まだまだ残存している。日本において、朝鮮人に対する差別はずいぶんと大きいのである。その日本に、朝鮮人として、私が住んでいるのです。朝鮮人といっても、私は日本で生まれ、日本で育ち、日本語しか話せず、日本でしか生活できません。外見も中身も他の人と変わらず、ただ違うことといえば、受験などの履歴書の本籍の欄に、“韓国”と小さく書かなければならないということだけです。私自身の違いはそれだけなのです。けれども、社会は、そう見てくれません。なぜ、朝鮮人は嫌われるのでしょうか。こんなにも日本を愛している私が、なぜ、外国人として、差別を受けなくてならないのでしょうか。誰か教えてください。私の居場所を探してください。これは、短期大学を担当した時の韓国籍の女子学生が書いたものである。
私の息子が小学生、中学生の時、在日韓国人の同級生と仲がよかった。子どもがその友達の家に遊びに行った時、私に「お父さん、○○くんの家の中は、なんとなくうちと雰囲気が違うよ」と言ったことを思い出した。その時、息子は彼が在日韓国人と知っていたかどうかも確認しなかった。彼は日本名を名乗っていた。私は、なんとなくうわさで知っていたが・・・。息子と話をしなかったことが悔やまれる。

0 件のコメント:

コメントを投稿