2013年1月11日金曜日

従軍歌謡慰問団


「従軍歌謡慰問団」(馬場マコト著)という、若い人にはぴんとこないであろう本を読んだ。あとがきが印象深かったので紹介したい。

あとがき
「歌は世に連れ、世は歌に連れ」という言葉がある。しかしいつも思う。確かに時代の変化とともに歌は変わってきたが、時代をがらりと変えてしまうほどの、思想ある歌の出現は、ビートルズ以外にあったのかと。
ヒットという宿命の課題をもたされた音楽界は、時代の変化を嗅覚的に嗅ぎとり、新たな時代の言葉と音を創出できる者たちだけが生き残る世界だ。
この本のおもな主人公である藤山一郎、東海林太郎、西候八十、古関裕而が、戦時中に数多くの軍歌・戦時歌謡をつくり歌いながらも、戦後さらりと平和讃歌を創出することに、違和感をもって、お前たちには思想がないのかと迫る人々に、彼らは言うだろう。
「右も左もない、自分は時代の子だ」と。それは視聴率争いや競合を日々くりかえすテレビ界、広告界においても同じだ。時代というじゃじゃ馬に振り落とされず、長く並走していくには、瞬発力と柔軟性がいつも要求される。
平時はそれでいい。抜いた抜かれたと喜び嘆き、次なる自分の新たな感覚を駆使して、時代におもねながら、新たな時代の言葉や音を紡ぎだせばいいのだから。 
しかし、いったん戦争が起きた時には、「思想なき時代の子」はなんの思慮もなく、やすやすと戦争の手先になってしまう。
それを熟知していた戦前の情報局が、広告・映画・演劇・文学・美術・音楽を一括に管理する部署として、第五部を設置したことは象徴的だ。
そして、そこからつぎつぎと発信されたメッセージは、これも「思想なき時代の子」である大衆に、熱狂的に受け止められ、過熱し、増幅し、肥大化していった。
この本の主人公の慰問先にあわせるようにして、私はこの一年間いくつかの旅をつづけた。
大連からハルビンまでの汽車の旅、上海から揚子江を遡行する旅、マレー鉄道を縦に乗り継ぐ旅、そしてインドネシア諸島を転々とする旅。
いずれも旅の記憶として「遠さ」だけが残った。
日本軍と日本人はここまで来ていたかという、なかなか信じがたい「遠さ」だった。今以上に過酷で困難だった、70年前の彼らの旅の「遠さ」に、戦争に反射し、傾斜する、人間さがの「狂気」と「性」を想った。
『戦争と広告』で1907年生まれの新井静一郎をとりあげ、『花森安治の青春』で1911生まれの花森安治を、「従軍歌謡慰問団」で1911生まれの藤山一郎を主人公にしたのは、同世代人である。
1911年生まれの私の父、馬場八十松の中に秘められた、その「狂気」と「性」を知りたかったからかもしれない。
逓信省の北陸電話局に勤めていた父は妻と子ども3人を連れて、1942年満洲電電に移った。その地で子供三人をつぎつぎに亡くし、満州で生まれた子ども一人を引揚げ船の中で亡くして、19464月帰国した。
なぜ父は戦争に反射し、満州へ傾斜していったのか。
父の生前にお互いにその話をしたことはなかった。
明治の父には、あの戦争のことを聞かさせぬ雰囲気がどこかにあった。
母、百代は何年たっても「マユミ、マキオ、ムツミを冷たい土に埋めた、マサコの遺体を引揚げ船の中から海に捨てた」といつも泣き、「戦争だけは嫌だ。戦争だけはしてはいけない」と言いつづけて90歳で死んでいった。私の幼いころ母はいつも茶の間を掃きながら「長崎の鐘」を歌っていた。
父が亡くなり遺品をかたづけていたら、戸籍謄本がでてきた。私の三姉マサコの死亡届けは、1946年の41日に、長崎の大村市引揚げ収容所で出されていた。私は19472月生まれだから、母は四人の子を失い、戦後八か月ぶりに帰って来た日本で、五月に私を受胎したことになる。
姉兄四人の死がなければ、私の生はなかったのだろう。その私は40年以上に亘り広告企画の仕事を通して、時代と並走し、時代に添い寝してきた。
父が生きている間に直接聞けなかった、父の内なる「狂気」と「性」を探るように、私はこの3年、広告、媒体、音楽界を透過して、人は戦争にどう反射し、傾斜するかを書いてきた。そのなかで前の不幸な戦争に唯一学ぶものがあるとすれば、「人間は戦争に真剣に熱くなる狂気の動物だ」ということだ。
私は父から引き継いだ内なる「狂気」と「性」を恐れ、震える。
戦争が起こってしまえば、人は確実に戦争に反射し、熱くなり疾走する。
だからこそ自分の内なる本能を自覚し、なにがあっても、いま、戦争を起こしてはならないのだと思う。
安倍首相は、憲法96条を改正して、「国防軍」をつくろうとしている。そのためには各議院の三分の二の議員の賛成が必要である。来るべき参議院選挙で改正派が三分の二なったら、その先はどうなるのであろうか。待っているは戦争のできる「国防軍」である。

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