2013年1月29日火曜日

高群逸枝

 石牟礼道子著「最後の人 詩人 高群逸枝」を図書館から借りて読もうとした。期限15日間で読むことができなかった。途中まで読んで、取り合えず返却することに。高群逸枝(女性史学の権威であり、詩人)の名前だけでも、覚えていただくために、あとがきの一部を紹介。

 高群逸枝さんは一八九四年生まれで、石牟礼さんが一九二七年ということは、年は三十二、三違いますね。同じ熊本県に生まれ育った高群逸枝さんは、水俣で非常に有名な方だったんでしょうか。
石牟礼 いいえ、全然。私は水俣の栄町に小学校の二年か三年生までおりましたけれど、同じ町内の四、五軒先に、橋本商店という食料品のお店があったんです。それで小さい頃、よく大豆とかお砂糖とかを買いにやらされておりました。そのお店が橋本憲三(高群逸枝の夫)さんご姉妹の家とは、もちろん知るよしもなく。
逸枝さんが亡くなられて、憲三さんと静子さんが私の家に見えられた時に、静子さんの姿を見て「ああ、あそこの店の人」って思いました。背中のすっと伸びた近代的な美人で、おおらかな、とても知的な感じの人でした。お顔もよく存じあげていて、ものはいわなかったけれど、親しい人と思っておりました。それでうちに来られて仰天しましてね。まさか同じ町内におられたとは。同じ町内ではありましたが、逸枝さんと憲三さんは一年に一回も帰っておいでにはならない。それでも橋本家には、東京の二人を実際に援助した姉妹がいたんです。あのお二人は、お国のために勉強しよるんだから、援助をせんといかんとおっしゃって、戦時中にもお金や食べ物を送りつづけられた。そうしたことは後から知りました。 
当時(1964年頃)、私はサークル村に入っててちょっと書いたり、谷川雁さんがやっておられた大正行動隊に行ってみたりしていました。短歌をやめかかっていたので、別な表現を獲得したかったんです。そのころ、自分を言い表せるものが何にもないと思ってて、いろいろ悩んでいました。結婚とは何ぞやとか。そして表現とは何かと。
当時、私は、村の中の石牟礼家の嫁になっているんですが、お嫁にいってみたら、何かしら違和感がある。全部価値観が違う。あらためて村全体を見てみたら,よその嫁さんたちも、女性は不当なあつかいを受けていると思ったんです。
高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの)より。
石牟礼道子と言えば、水俣病。「苦界浄土」である。これは、引き込まれるように読めたが、この本は読みきれず。再挑戦したい。

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