2013年2月1日金曜日

明らかに究める


 五木寛之の「人間の運命」を読む。五木寛之の本は、どの本もよく売れている。小説ではなく随筆が多い。本の字も大きめで高齢者に優しい。
 最後の「あとがきにかええて」の部分を紹介する。

思うとおりにならないもの、というのが私の人生に対する見方である。そして、そのことをはっきりと認め、目をそらさずに直視することからしか人は行動できないのではないか。
ありのままの現実を、勇気をもってはっきり認めることを、「あきらめる」という。諦める、という言葉を、私は自分流に読みかえて、「明らかに究める」と読んでいる。
どんなに嫌なことでも、不快なことでも、そこから目をそらすわけにはいかない。しっかりと現実をみつめ、そのありのままの姿を見定めることが第一歩なのだ。
運命とは何か、運命は変えることができるのか、という主題は、繰り返し古代から考察されてきた。
私は変えられる、と思いたかった。そう信じて、生きてきたのだ。
しかし、最近、つくづく考えるのだが、自分はひとりでこの世に誕生したのではない。私という個人の上には、両親や、民族や、先祖や、いろんな自分以外の力が働いている。
いま現在の自分の住所や職業を変えることはできる。しかし、過去から引きずったものはどうしようもない。
たとえば私は母親似だが、弟は父親にそっくりだった。顔だちから性格までそうだった。それをもし運命というなら、運命の力は逆らいがたく大きい。そして、それを変えることはできない。
運命に身をまかせる気はない。しかし、運命に逆らうこともできない。
そこでできることは、ありのままの自己の運命を「明らかに究める」ことだけだ。自分の運命をみつめ、その流れをみきわめへそれを受け入れる覚悟をきめることである。
そのことによってのみ、運命にもてあそばれるのではなく、運命の流れとともに生きることが可能になるのではないか。私は、やっといまそんなふうに前向きに運命について感じられるようになってきた。
自分の努力しだいで何でもできる、などと思うのは、人間の倣慢というものである。近代の世界はその倣慢な人間によって支配されてきた。
「人間は考える葦である」とパスカルは言ったが、これまでの解釈とは別な印象を私は受けている。
弱く、はかない存在だが、考えるという行為によって人間は偉大だ、とこれまでは教えられてきた。
しかし最近、パスカルを読みなおして感じるのは、彼のおどろくべき謙虚さである。考えようが考えまいが、その前に人間は風にそよぐ一本の葦のように弱い、はかない存在である、という深い思いがパスカルの言葉の前提なのだ。
私たちが生きている現在は、人間の深く暗い部分に光をあてることが最も重要な時代となりつつあるように思う。
「考える葦」「明らかに極める」の解釈は成る程と思う。

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