2013年9月9日月曜日

寄り添いと共感


斉藤環氏の文章の最後の部分「あわりに」を紹介する。
   おわりに
さまざまな喪失感があるなかでも、いま私がもっとも懸念しているのは、福島県の人々のそれだ。原発事故によって医療資源が不足しつつあることももちろん問題だ。しかしそれ以上に、いまや「放射能」が人々の喪失感を宙吊りにしているように思われるからだ。
「宙吊り」とは、どういうことだろうか。
   福島では、原発周辺の住民は、たとえ土地や家が無傷であっても避難を強いられた。眼に見えない放射性物質は、人間の住めない広大な土地をもたらした。それは果たして決定的に失われたのか。あるいは除染を繰り返すことで、いつかは取り戻すことができるのか、いまだそれすらもはっきりしない。とどまるべきか避難すべきか、故郷を捨てるべきか帰るべきか、その迷いと葛藤が多大なストレスをもたらしている。この種のストレスは、日本人がこれまで経験したことのないタイプの「喪失感」に由来する。
   いわゆる低線量被曝の問題も、人々のこころを迷わせる。わずかな放射線も危険であるとして、福島にとどまり続ける当事者を批判する人。低線量被曝が人体に有害であるという医学的根拠はないと安全性を強調して、御用学者と叩かれる人。いずれも善意であるがゆえに対話にならず、感情的な対立だけが深まっている。ここにも当事者を置き去りにした、不毛な言語ゲームが繰り返されている。
   しかし、あえて言えば、いまなされるべきは当事者の啓蒙や説得などではない。
   被災者の喪失感に照準し、当事者の主体性を最大限に尊重すること。相手に寄り添い共感する姿勢のもとで、対話の試みを続けること。われわれはあくまでも、福島から学ぶ立場であることを忘れないこと。
   私もまた、学ぶものの一人として、当事者の声と喪失感情のゆくえを見守っていきたい。 
   我々に、今できることはなにか。被災者の心に寄り添い、現地に足を運び、忘れないことではなかろうか。

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