2013年12月27日金曜日

<正常>を救え


人から、紹介され、「正常を救え」というタイトルの本を購入し読んでいる。あとがきのところに興味深い記述があるので紹介する。
人間の多様性には目的があり、さもなければ激しい進化の競争に耐えて受け継がれたはずがない。われわれの祖先が生き残れたのは、部族が多種多様な才能と性向を併せ持っていたからだ。自分に酔っている指導者もいれば、指導者に喜んで頼る追随者もいた。隠れた脅威を嗅ぎつけるくらい猜疑心の強い者も、仕事を片づけずにはいられないくらいきまじめすぎる者も、異性を引き寄せるくらい目立ちたがりの者もいた。危険を避けたがる者と、遠慮なくそれを利用する者がいるのは好都合だった。
たぶん最も健全なのは、こうした特性のバランスが最もよくとれていて、平均値あかりにいる人物だっただろうが、集団にとつては、特別な必要があるときにいつでも登板する用意ができているはずれ値を持っておくのが最善だった。甲虫や熱帯雨林の木にあれほどの異なった種があるのとちょうど同じように。
ダーウィンは、脳の機能やそれが生み出す人間の行動も、肉体の形状や消化器系の働きとまったく同じで、自然淘汰の産物であることにすぐさま思い至った。人間を理解したければ、哲学や心理学の本を研究するのではなく、ヒヒを研究したほうがいい。そしてダーウィンは、熟練した博物学者の鍛えられた目で、自分の子どもたちが日々成長していくさまを観察した。われわれに悲しみや不安やパニックや嫌悪や怒りを感じる能力があるのなら、それはいずれにも生存上の大きな利点があり、人間の生活の不可避にして不可欠な部分をなしているからである。

われわれは愛する者の死を悲しまなければならないのであり、さもなければ心から愛さない。われわれはみずからの行動の結果を心配しなければならないのであり、さもなければそういう行動によって苦境に立たされる。われわれは環境を管理しなければならないのであり、さもなければ混乱が生じる。病気は平均から遠く離れた末端にのみ潜んでいる。われわれの行動の大部分には、しかるべき理由がある。われわれの大部分は正常なのである。

私はエキセントリックな行為や人物が好きだ。「常軌を逸した」を意味するeccentricは、「中心からはずれた」を意味するギリシャ語の幾何学用語から来ている。英語では、天文学で天体の軌道を説明する際に使われたのが最初である。現在では、ふつうとちがう人たちを指して使われている。 たいていは軽蔑の意味が含まれており、彼らの特別な才能を賞賛しているときは少ない。自然は均質をきらい、エキセントリックな多様性を明らかに好む。われわれは'大部分の人間が少なくともいくらかはユキセントリックであるという事実を祝福すべきであり、欠点も含めて自分たちをありのままに受け入れるべきである。
人間の差異は、どこかの精神科のマニュアルから軽々しく導かれた診断の膨大なリストに単純化されていいものではなかった。部族が成功するためにはあらゆる種類の人間が必要だし、充実した生を送るためにはあらゆる感情が必要である。差異を医療の対象にすべきではないし、 ハクスリーのソーマの現代版を飲んで無理に治療しょうとすべきではない。精神科の治療の最も残酷な矛盾は、それを必要としている人がたいてい治療を受けず、治療を受けている人がたいていそれを必要としていないことである。
私の友人の中にも「エキセントリック」な人が多い。私たちのまわりには、正常で健康な人を異常とみなし「薬漬け」にして儲けようと企てている「製薬企業」がいっぱいある。正常でなければ、すぐに治療される時代である。「正常値とはなんぞや」ということを、医療人をして考えていかなくはならない問題である。

2013年12月24日火曜日

グローバル平和主義


「集団的自衛権の深層」という本を以前紹介したが、著者は最後の方で、以下のことを言っている。
集団的自衛権が戦後政治で果たしてきた否定的事例をこれだけ紹介したあと、「対案」など問題外だろうと思われる方が多いかもしれない。ただただ批判し、集団的自衛権はタメだといぅ結論を導くのが普通のやり方だと、ほとんどの方はいわれると思う。
しかし、集団的自衛権を行使できるようにするのだという自民党が選挙で国民の支持を得るからには、ただ批判するだけでは済まないと感じる。やはり、目の前の緊迫するアジア情勢のなかで、アメリカが何らかの役割を果たすべきなのは当然であって、そのアメリカに協力するのも当たり前だと考える人びとは多いのである。
緊迫する情勢といっても、日本が武力攻撃を受けるような事態での回答は明白である。確固として自衛権を発動するが、日常的には、憲法九条の「制約」を「優位性」に変えて、アジア諸国との協調を成し遂げる戦略である。筆者はそれを憲法「九条の軍事戦略」(平凡社新書)で描いた。
一方、いま集団的自衛権をめぐって焦点になっているのは、日本への武力攻撃とは直接には関係しない世界の紛争をどう捉え日本は何をするのかである。日本の国際貢献という分野の問題でもある。
日本が侵略されない場合は無関心ということでは、世界からも信頼されない。自民党が支持をひろげる背景にあるのは、軍事的な分野においても、日本が世界に貢献するような国であってほしいという世論があるからなのだと思う。そして、その期待を背にして、自民党は集団的自衛権の行使という結論を導きだしたのである。
では、結論が政府・自民党が選択したものであってはならないとすれば、その回答はどこにあるのか。
アメリカだけ助けるのではなく、世界全体の平和に貢献することこそ、これからの日本の生きる道である。「二国平和主義」から「グローバル平和主義」へ、である。

2013年12月17日火曜日

心のサプリ


毎日新聞の海原純子氏の「新・心のサプリ」は以前にも紹介したことがある。今回は大切な人を亡くした人との接し方についてのエッセイである。
大切な人を亡くした人との接し方。
グリーフケアについての著書のあるドイツ生まれの哲学博士で上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン氏は、著書の中で、大切な人を亡くし悲しんでいる方にかえってコミュニケーションの妨げとなる言葉の実例をあげている。
まず第一は「がんばろう」。1995年の阪神淡路大震災のときには肉親を失った方はそう言われるのを一番嫌なことにあげている。そしてデーケン氏は、これは世界中どこでも同じとつけ加えている。
第二は「泣かないで」「泣いてはダメ」ということば。人は泣くことで感情を表現し心を回復するきっかけとするもの。泣かないで、ではなく、安心して涙を流せる環境を作ることが大事といえるだろう。
第三は「早く元気になってね」。早く元気になりたいのは本人もよくわかっている、でもそんなことはできない。こうした葛藤に気づくことが大切だ。
第四に、「あなただけじゃない」という他人との比較。つらさは他人と比較できるようなものではない。
第五に「時がすべてを癒やす」という言葉。これも悲しみの中にいる人にとっては不快だとされる。いくら時がたってもすべてを癒やすとは限らない。この他デーケン氏は「もう立ち直れた?」や「私はあなたの苦しみがよくわかる」などをコミュニケ-ショ.ンの妨げとなる言葉としてあげている。
言葉はたしかに大切だ。しかし大事な人を亡くした方に接するとき必要なのは、「言葉を超えるコミュニケーション」ではないかと思う。つまり、ただそばにいて、つらい方が安心して泣ける環境を作り、共に泣き悲しみをわけ合う、そうしたコミュニケーションが最も必要なのだと思う。
さて、デーケン氏は死についてヨーロッパの祈りを紹介している。「変えられないことはそのまま受け入れる平静さと、変えられることはすぐそれを行う勇気を与えてください」。亡くした人の死を悲しんで過ごす日から一歩ふみ出す力を願う祈りだという。
そしてその一歩をふみ出すにはそばにいて共に泣きつらさをわけ合える人の存在が大切なのだと思う。(日本医大特任教授)\
確か、東日本大震災の時、テレビでやたら「頑張ろう日本」と言っていたのに違和感を覚えていたのを思い出した。
大切なのは、自分が逆の立場で大切な人を亡くしたらどう思うだろうということを、真剣に考えることだと思う。そうすれば自ずと接し方がわかってくると思う。

2013年12月14日土曜日

集団的自衛権の深層


集団的自衛権の深層」松竹伸幸著(平凡社新書)を読む。帯には「安倍政権の時代遅れの発想は、取り返しのつかない事態をまねくかもしれない」と書いてある。はじめにの一部を紹介する。

集団的自衛権というものの複雑さ

本書は、安倍首相がそれほどに執念を燃やす集団的自衛権とは何か、その行使を可能とすることの是非をどう考えるかということを、さまざまな角度から検証しようというものである。そのため、集団的自衛権が行使された過去の実例はもちろん、さまざな法解釈などにも言及していく。
じつは私は、集団的自衛権を全否定する立場ではない。おいおい書いていくことだが、集団的自衛権というのは、国連憲章のうえでは、あくまで侵略された国を助ける軍事行動のことである。どこかの国が侵略されたとき、その国を助けたいという気持ちになるのは、自然なことだと考える。憲法九条を大切だと思う人のなかに、どんなものであれ武力行使はダメだという考えの人がいることは理解するが、侵略された国を助けたいという人びとの気持ちまで否定してしまうような議論をしていては、世論の理解は得られないと感じる。
自民党がこの問題を推進する背景にあるのも、侵略された国を助けるという純粋な気持ちを私用する思惑からきている。
同時に、集団的自衛権を論じるうえで大切なことは、この問題には、侵略された国を助けるなどというきれい事を許さない実態が存在することである。建前は侵略された国を助けるものであるとされながら、実態は侵略の口実になってきたという歴史があるのだ。

賛成か反対かという角度だけからみてはいけない

こうして大事なことは、「集団的自衛権」というものが、侵略と自衛という、本来は絶対に両立しないもの、いや正反対であるものを包含する概念になってしまったことである。建前は自衛だが実態は侵略、建前は正義だが実態は不正義、ということだ(便宜上、「正義」という言葉を使ったが、私は、たとえ侵略に対する自衛という性格をもつ戦争であっても、それを「正義の戦争」と呼んではいけないと思う。「正義」と言ってしまえば、何でも許されるかのような考え方も生まれるのであって、せいぜい「やむをえない戦争」という表現にとどめるべきだろう)
この事実は、集団的自衛権を論じる際、つねに念頭においておく必要がある問題である。集団的自衛権は悪いものだ、不正義だという固定観念にしぼられていると、なぜ侵略に対してまじめにして自衛するのがいけないのだという批判には答えられないことになる。あるいは、侵略に対して個別的・集団的自衛権が発動されたとき、そこには評価すべき点があるかもしれないのに、ただただ批判に終始して道理を欠くことにもなりかねない。逆に、攻撃された国を助けるのだから当然だという建前からだけみていると、集団的自衛権をめぐる現実が目に入ってこないということになる。
要するに、この問題は、集団的自衛権に賛成か反対かという角度だけでみていては、深い理解に達することはできないのである。安倍首相をはじめ集団的自衛権の行使を求める人びとのなかには、この問題を同盟国との関係の枠内でしか捉えられない硬直した思考にしばりつけられている人が多いが、集団的自衛権を批判する人びとは、同じ水準であってはならない。頭を柔らかくして考えることが求められる。
そうなのだ。われわれは集団的自衛権を叫ぶ人たちとは同じ水準では勝てないのである。まさに、この様な本を読んで学習を深めることが重要だ

2013年12月12日木曜日

肉声


毎日新聞のコラム「発信箱」になるほどと思う文章があった。以下、全文を紹介する。

肉声の力

物事を、よりリアルに伝える手段とは何か。新聞記事とか写真、映像だろうか。京都大大学院教授で現代アラブ文学研究者の岡真理さんは、何かをより強く、深く伝えたいのであれば、それはむしろ「文学」であり、それを読み上げる「肉声」ではないかと考えている。
岡さんは、2008年末から09年初めにかけてのイスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区空爆の様子を描いた朗読劇「ガザ希望のメッセージ」の脚本を書き、演出した。空爆下のガザから寄せられた、ガザ・アズハル大学のアブデルワーへド教授からのメールなどが題材で、09年夏に京都で初公演。今年は5年目で、今月1314日、東京都中野区のポレポレ坐で再演する。
岡さんが朗読劇に魅せられたきっかけは、歌手の沢知恵さんの弾き語り「りゅうりぇんれんの物語」だったという。日本に強制連行され、その敗戦も知らずに北海道の原野で逃亡生活を続けた中国人の人生を詩人、茨木のり子氏が描いた長編詩。「弾き語りというより朗読で、その肉声の力、可能性に衝撃を受けた」
演劇や映画は視覚的に出来上がっていて、聴衆は受け身になりがちだが、朗読劇では、朗読者がまず物語をしっかりとつかんで読み解き、提示する。受け手はそれにより想像力が喚起され、能動的にとらえようとする。その作業こそが理解を深め、心を揺さぶるのだという。
ガザはイスラム原理主義組織が07年に武力制圧し、イスラエルは人と物の動きを規制する封鎖政策を実施。「閉ざされた世界」での市民生活の困窮が続いている。「人として、どう向き合うべきなのか、問いかけたい」という。
私は小説の朗読を聴くのが好きだ。毎週土曜日の朝、NHKラジオで小説の「朗読」をやっている。テレビで見るより、活字を読むより、はるかに想像力が働き、楽しい時間となる。朗読者が上手ければなおよい。私たちは「肉声」を忘れてはいないだろうか。

 

2013年12月10日火曜日

文学の中の鉄道


「文学の中の鉄道」(鉄道ジャーナル社)原口隆行著 を読む。その中の一遍、夏目漱石の「草枕」に出てくる鉄道場面を紹介し、コメントしている。少々長いが、一部紹介。

草枕    夏目漱石

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば、角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
この有名な書き出しで始まる『草枕』は、明治三十九年(一九〇六)、雑誌「新小説」の九月号に掲載された。
この小説の主題は、この書き出しに集約されている。つまり、人間が知恵を働かせようと思うと事が荒立ってしまう、そして情に抗おうとすると葬り去られかねない。いやはや、住みにくい世の中だこと・・・ 。
「余」は三十歳、東京に住む洋画の画工である。都会での人間関係に倦み、しばしの間でいいから「非人情」の境地に浸りたいと考えて遠出の旅に出た。
「余」は峠の茶屋で一休みし、そこのお婆さんと源兵衛という馬子から温泉宿・志保田の娘の噂話などを聞かされた後、山里に降りてゆく。
落ち着いた先は那古井という、かつて一度泊まったことのある海辺の集落だった。「余」は志保田の離れの一室で寝泊りすることになる。
那古井には、東京にはない時間が流れていた。時は春。いい時節を迎えて桃源郷ともいえる世界がそこにはあった。これこそ、「余」が求める非人情の世界である。だが、非人情では絵は描けない。だから、「余」の筆は重い。
さて、ここで那美さんという、嫁いだ先から出戻り、今は実家の志保田で奔放に暮らしている女性が「余」のまわりに出没するようになる。那美さんは、相愛の男と離され、金持ちに嫁がされた経験があるからか、欠片も人情がない。つまり、非人情の人である。 
「余」はここに逗留する間に、宿の隠居や那美さんの従兄弟の久一、大徹という和尚と近づきになる。これらの人にもどこか人情を超越した趣がある。
ある日、写生に出た草原で「余」は那美さんがいかにも生活にくたびれたといった風体の男と話しているのを目撃する。那美さんはこの男に財布を渡す。男は那美さんと強引に離縁された夫で、落ちぶれて満洲に赴くところだった。
大団円は、久一が日露戦争に従軍することになり、それを見送るために久一、隠居と那美さん、近くに住む那美さんの兄、世話を焼く源兵衛、それに「余」が川舟に乗って「吉田の停車場」まで向かう場面。
いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と言う。汽車ほどこう二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百という人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると言う。余は積み込まれると言う。人は汽車で行くと言う。余は運搬されると言う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。
文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。(中略)余は汽車の猛烈に、見界なく、すべての人を貨物同様に心得て走るさまを見るたびに、客車のうちに閉じ寵められたる個人と、個人の個性に寸毫(すんごう)の注意をだに払わざるこの鉄車とを比較して、― あぶない、あぶない。気つを付けねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を衝かれるくらい充満している。おさき真闇に盲動する汽車はあぶない標本の一つである。
引用が長引いたが、これは駅前の茶店で考えた「余」の「汽車論」である。汽車に象徴される二十世紀文明が、この警句の通りに推移したかどうかはともかく、人間の個性をある面で均質化してしまったことは一面の真実だろう。軟石の慧眼には脱帽である。
100年以上前に発刊された小説であるが、漱石の小説は現代にも通じるものがある。通学時代、日本文学全集を乱読したが、鉄道との関係で読んだことはない。漱石の言っている「汽車にのるのではなく、積み込まれる」という表現は面白い。私などは東京の「山手線」を思い出してしまう。(黒字は小説の原文)

2013年12月7日土曜日

もんじゅ君


以前、紹介した「ビッグ・イシュー」に「もんじゅ君からのお手紙」というツイッターが紹介されている。フォロワー10万人と割れている。一部紹介する。

もんじゅ君からのお手紙

こんにちは。ボク、福井県敦賀市にくらす高速増殖炉のもんじゅだよ。ポクが初めて臨界をはたしたのは94年なんだけど、この20年間でお仕事したのはたった4カ月。どうしてこんなにサボってばかりかというと、それはあまりにもトラブルが多いからなんだ。
95年にはナトリウム漏れ火災事故、2010年には原子炉中継装置落下事故とおおきな事故を起こして、どちらもかかわってくれていた職員さんが自殺をしたの。安全面だけじゃなく、組織風土の面でも疑問をもたれているんだよ。
それでもボクのパパであるJAEA (日本原子力研究開発機構)のおじさんたちはずっと「おまえはやればできる子」「夢の原子炉だぞ」と、蝶よ花よとはめそやしてくれていたんだ。それで、ポクもなんだかそんな気になっちゃってたの。
だけど、そんなただれた甘い生活も、20113月のふくいち君(福島第1原発)の事故で終わりを告げたんだ。テレビを流れる爆発シーンを見ながらボクは気がついちゃったの、「ぜんぶウソだったんだな」って。
日本各地に50基あるふつうの原発は「軽水炉」っていうんだ。だけど、ボクは高速増殖炉といってちょっと違うタイプで、使えば使うほど燃料のブルトニウムが増えていく (はずの)原子炉なの。燃料がどんどん増えるなんて、昔話の「うちでの小槌」みたいでしょ。だから「夢の原子炉」なんて呼ばれたりしたんだよ。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、高速増殖炉を研究していたほかの国はみんな手を引いちゃった。だってお金がかかりすぎるし、事故を起こしやすくてとっても危険だから。
それでも日本はあきらめずに「2050年代に実用化」なんていっているの。最初は80年代に完成予定だったのを70年も延期しているなんて、どう考えてもウソっぽいよね。
どうして日本がすなおに「高速増殖炉なんてやめる!」っていえないかというと、「原発から出た使用済み核燃料は、六ヶ所村の再処埋工場でリサイクルして、それを高速増殖炉でまた使いますよ。だから、ゴミ処理もバッチリ」という建前があるから。
だけど六ヶ所村だってぜんぜん完成しないし、この核燃料サイクル計画はとっくに破綻しているんだ。
でもそれを認めたら、日本中にある大量の使用済み核燃料の処分方法を本気で考えなきやいけなくなるし、ゴミの行き場がなくなって、原発も動かせなくなっちゃう。それでウソの建前をまもりつづけるために、ボクもんじゅのことも「あきらめてないふリ」しているの。
だけど、16万人もの方がおうちに帰れないという福島の現実を見つめたら、これ以上ウソをつきつづける理由なんてないんじゃないかな。
最後に明るいおはなしをひとつ。ポクの先輩にあたるドイツのカルカー高速増殖炉は、80年代に完成したけれども住民の反対運動が高まって、動くことなく引退したの。それでいまは遊園地に変身して、毎日、子どもたちを楽しませているんだよ。ボクもいつかご隠居して、ソーラー発電所に生まれかわれたらいいのにな。
126日は悪名高い「秘密保護法」が成立した日として記憶に留めておきたい。「原発」「TPP」「消費税」等々、やり放題の政府に鉄槌を!

2013年12月3日火曜日

内なる天皇制


出張先のホテルで朝日新聞が無料で置いてあったので、久々に朝日新聞を読んだ。我が家は毎日新聞である。朝日新聞のオピニオン欄に、映画監督であり、作家でもある森達也氏が、「内なる天皇制」として文章を書いている。その中のごく一部を紹介する。
「そもそも人間は象徴にはなり得ません。ひとりひとり個性があるからです。表情や発言に感情がにじんでしまうことがある。寿命があるから代替わりもする。象徴天皇制は、どんなキャラクターの人が天皇になるかによってその相貌が変わる、実はとても不安定な制度です」
「天皇が『現人神』のままでは占領統治がうまくいかないと考えたアメリカの意向を受け、昭和天皇は『人間宣言』をし、象徴天皇となった。ここで捩れてしまったのです」
 ただ、天皇への思い入れが薄い若い世代が増えれば、状況はずいぶん変わってくるでしょう。
「僕もそう思っていましたが、今回、それは違うと気づいた。老若男女を問わず日本人は好きなんですね、『万世一系』という大きな物語が。日本は世界に例をみない特別な国なんだという、インスタントな自己肯定感を与えてくれますから」
「天皇制は、選民思想を誘発します。この国の近代化の原動力の一つは、他のアジア諸国への蔑視であり優越感で、敗戦後もその感情は持続しました。だからこそ原爆を二つ落とされ、首都は焼け野原になって無条件降伏をしたのに、二十数年後には世界第2位の経済大国になった。確かにこれはミラクルです。しかし、GDP (国内総生産)は中国に抜かれ、近代化のシンボルである原発で事故が起き、日本は今後間違いなく、ダウンサイジングの時代に入ります。でも、認めたくないんですよ。アジアの中のワン・オブ・ゼムになってしまうことを。ひそかに醸成してきたアジアへの優越感情をどうにも中和で経ない。その『現実』と『感情』の軋みが今、ヘイトスピーチや、『万世一系』神話の主役である天皇への好感と期待として表れているのではないでしょうか」
「結局、戦後約70年をかけてもなお、僕たちは天皇制とどう向き合うべきか、きちんとした答えを出せていない。山本さんの軽率な行動は図らずも、このことを明らかにしてくれました」

確かに、平成天皇は「昭和天皇」とはまったくイメージが違う。そこの違いと、今の若者の天皇感を森氏はうまくとらえていると思う。自分にとっての「内なる天皇制」を考えてみたい。「そもそも人間は象徴にはなり得ません」はまったく同感。