2013年12月14日土曜日

集団的自衛権の深層


集団的自衛権の深層」松竹伸幸著(平凡社新書)を読む。帯には「安倍政権の時代遅れの発想は、取り返しのつかない事態をまねくかもしれない」と書いてある。はじめにの一部を紹介する。

集団的自衛権というものの複雑さ

本書は、安倍首相がそれほどに執念を燃やす集団的自衛権とは何か、その行使を可能とすることの是非をどう考えるかということを、さまざまな角度から検証しようというものである。そのため、集団的自衛権が行使された過去の実例はもちろん、さまざな法解釈などにも言及していく。
じつは私は、集団的自衛権を全否定する立場ではない。おいおい書いていくことだが、集団的自衛権というのは、国連憲章のうえでは、あくまで侵略された国を助ける軍事行動のことである。どこかの国が侵略されたとき、その国を助けたいという気持ちになるのは、自然なことだと考える。憲法九条を大切だと思う人のなかに、どんなものであれ武力行使はダメだという考えの人がいることは理解するが、侵略された国を助けたいという人びとの気持ちまで否定してしまうような議論をしていては、世論の理解は得られないと感じる。
自民党がこの問題を推進する背景にあるのも、侵略された国を助けるという純粋な気持ちを私用する思惑からきている。
同時に、集団的自衛権を論じるうえで大切なことは、この問題には、侵略された国を助けるなどというきれい事を許さない実態が存在することである。建前は侵略された国を助けるものであるとされながら、実態は侵略の口実になってきたという歴史があるのだ。

賛成か反対かという角度だけからみてはいけない

こうして大事なことは、「集団的自衛権」というものが、侵略と自衛という、本来は絶対に両立しないもの、いや正反対であるものを包含する概念になってしまったことである。建前は自衛だが実態は侵略、建前は正義だが実態は不正義、ということだ(便宜上、「正義」という言葉を使ったが、私は、たとえ侵略に対する自衛という性格をもつ戦争であっても、それを「正義の戦争」と呼んではいけないと思う。「正義」と言ってしまえば、何でも許されるかのような考え方も生まれるのであって、せいぜい「やむをえない戦争」という表現にとどめるべきだろう)
この事実は、集団的自衛権を論じる際、つねに念頭においておく必要がある問題である。集団的自衛権は悪いものだ、不正義だという固定観念にしぼられていると、なぜ侵略に対してまじめにして自衛するのがいけないのだという批判には答えられないことになる。あるいは、侵略に対して個別的・集団的自衛権が発動されたとき、そこには評価すべき点があるかもしれないのに、ただただ批判に終始して道理を欠くことにもなりかねない。逆に、攻撃された国を助けるのだから当然だという建前からだけみていると、集団的自衛権をめぐる現実が目に入ってこないということになる。
要するに、この問題は、集団的自衛権に賛成か反対かという角度だけでみていては、深い理解に達することはできないのである。安倍首相をはじめ集団的自衛権の行使を求める人びとのなかには、この問題を同盟国との関係の枠内でしか捉えられない硬直した思考にしばりつけられている人が多いが、集団的自衛権を批判する人びとは、同じ水準であってはならない。頭を柔らかくして考えることが求められる。
そうなのだ。われわれは集団的自衛権を叫ぶ人たちとは同じ水準では勝てないのである。まさに、この様な本を読んで学習を深めることが重要だ

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