2014年7月31日木曜日

スピーチ


日本語の名手、阿刀田高氏の本「日本語えとせとら」という本の中にスピーチについて述べた文章がある。
スピーチ入門
テーブル・スピーチを求められることがある。
「何分しゃべればいいの?」「三分くらい、お願いします」「三分ね」
ほとんどの場合、このくらいの長さが相場である。
三分は長いか短いか。ニュースを伝えるアナウンサーは三分間あれば、かなりの分量をしゃべる。短いトピックスなら五つくらい話してしまう。
しかし、あれには原稿があって、それをプロフェッショナルが伝えているから。アマチュアはああうまくはいかない。
スピーチについては、そう、スカートとスピーチは短いほうがいい、という古典的なジョークもあって、これはほとんどの場合正しい。三分を求められたら二分で切りあげるくらいの度胸・・・あえて度胸と言うけれど、
ーーあんまり短いのは失礼かなーー
などという意識も働いて、どんどん長くなる。心配ご無用。短いのは喜ばれるし、むしろむつかしい。一般には四百字詰原稿用紙で一枚が一分間くらい。二枚から三枚を話すくらいの心づもりがよいらしい。
原則として、 一トピックスがよい。つまり、たった一つのことをしっかりと話せはよい。あれも話そう、これも話そう、あ、思い出したから、やっぱりこれも話しておこうか。これはまとまりを欠く。印象も薄い。きちんと伝わらない。なによりも長くなってしまう。
いささかたちがわるいけれど、あるとき、結婚披露宴でゲストたちのスピーチの時間を計ってみた。三分以内というケースは三分の一にも満たなかった。五分を越えるスピーチも二つあった。一番わるいのは、 一通り話したあとで、
「ぜひとも申し上げたいことがもう一つあって」とか、あるいは、
「最後にひとこと」とか、つけ加えのあるスピーチだ。いま述べたように一トピックスがよろしいのだ。つけ加えるくらいなら、それ一つを、初めから話すのが適切だろう。
前置きのたぐいもいかがなものか。私見を述べれば、ないほうがすっきりする。
「大勢の先輩がたがいらっしゃるところで、私のような若輩ものが高い席から申しあげるのははなはだ借越ですが・・・」やたら謙遜を装うスピーカーもいるが、これも司会者が(式の運営者が)必要と考えて依頼している以上遠慮はいらない。
堂々と話せばよい。いきなり本題に入ったほうがすっきりする。
スピーチの名人と言われた徳川夢声は、「スピーチ、いつもみごとですね」と褒められたとき、「いえ、私は立場上スピーチをよくさせられるんです。だからそういう会場へ向かうとき、今日スピーチを指名されたら、なにをどう話そうか、必ず考えて行きます。もしお褒めくださるならスピーチがうまいではなく、用意がいい、とおっしゃってください」
けだし名言である。ほとんどなんの用意をめぐらすこともなく、いたずらに恐縮したり、まとまりのないことをしゃべったりするのは、それが一番失礼だろう。
用意をすれば、たいていの人がそこそこに話せる。よくよく自信がなく僭越に思うのであれば、あらかじめ紙に書いて読みあげたって、わるくない。書いた場合は、たいてい長くならないし、聞いているほうも、ーー あの紙が終われば、終わりだなーー
と安心して聞いていられる。ちがいますか。
まったくそのとおり。私も立場上結婚式の挨拶をよく頼まれる。原稿を用意し、2-3分位で終わるようにしている。次から、次へと付け加えて話す人がいるが、早く終わらないかなと思ってします。もう一つ付け加えるなら、会議での発言もだらだらと続ける人がいるが、これもいただけない。

2014年7月29日火曜日

引用句辞典・教育の効率化


久々に毎日新聞の引用句辞典(鹿島茂)から引用する。
[教育の効率化]
今日、学校教育は各方面からますます多くの批判を浴びつつある。その最たるものは、教育に要した時間と努力(インプット)に対して、社会に還元されるもの(アウトプット)が少なすぎるという批判である。
義務教育から大学まで合計16年間も教育を受けているのに、社会人として使い物にならないじゃないか、どうにかしろと実業界から批判が上がったのだ。教育は「失敗と見なされた」のである。
そこで、文部科学省は「大学を出たら即戦力」になるような人材育成すべLという方向に舵を切って、一般教養を切り捨て、専門教育重視を打ち出した。
だが、現実はどうなっただろう。プロフェッショナルな知識をもった専門家予備軍が生み出されるはずが、一般教義がなくなった分、より無教養になっただけの大学生が大量に送り出される結果となったのである。
企業から苦情を聞かされた文科省は熟慮の末に、結論を出した。企業が要求する専門家は大学院でなければ育成できない。ならば大学院を増やせばいい。かくて修士と博士のインフレーションが始まった。で、結果は? 専門家になりすぎて、企業としては使い道のないオーバードクターの大量発生である。そこで、文科省はもう一度、大学に目を向けてこう結論した。教育効率が悪いのは大学教員が休講ばかりしていて授業日数が足りないからだ、と。そこで、休講した場合には補講を義務づけ、授業時間も年間最低30コマとした。文科省が依拠しているのは労働価値説だから授業時間を増やせばその分、大学生のレベルも上がるということになる。いずれ年間授業数は40コマに増えるだろう。文科省は自分の思いつき通達で大学教員が雑務に忙殺され、大学のブラック化が始まっていることに気づきもしない。
それどころか、大学とてサービス資本主義の聖域ではないという理由で、さらなる大学ブラック化が推し進められることになる。こうした思考の延長線上に浮かび上がってくるのが、学生へのサービス最大化を謳った年中無休24時間営業のコンビニ・デジタル大学である。クレジットカード決済でどんな授業もダウンロードし放題。教室に足を運ぶ手間も省けるから、サラリーマンでも大学に復帰できる。コンビニ・デジタル大学なら、一握りの人気教授だけでサイバー予備校のように全国カバーが可能だから、大学過疎地も救えるし、人件費の大幅削減も不可能ではなる。授業の人気度を基準に教員同士を競い合わせればレベルも上がる。かくて、ホルへ=ルイス・ボルヘスの弟子である偉大なる読書人マングェルが嘆くように、「時間がかかり努力を要することの利点を納得させる」ことはますます不可能になりつつあるのだ。
教育も平和もともに、時間と金がかかるとういう事を忘れてはいけない。どちらも効率よく達成できない。地道な努力を面倒くさがらずにやることである。

2014年7月23日水曜日

集団的自衛権という軍服


毎日新聞の「発言」海外からという小さなコラムがある。今回は豪州の大学の研究員が書いている。全文紹介する。
「集団的自衛権」という軍服
デビッド・パーマーメルボルン大客員研究員(歴史・政治学)
安倍晋三首相が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした。「集団的自衛権」という言葉に力点を置くのは、平和憲法を前提とする日本独特の現象であり、米国やオーストラリアにとって意味のない用語だ。ただ、世界でもトップクラスの軍隊である自衛隊が、今よりも自由に動けるようになる。集団的自衛権という「軍服」を着て、作戦の一環.として海外で誰かを殺すことになるかもしれない。
世界は何が起きるかわからない方向に動いている。イラク北部で(イスラム過激派組織「イスラム国」の台頭で)内戦状態になり、クルド人たちが自治拡大を主張するなど数カ月前までは誰も考えなかった。ベトナムでは中国資本の工場が燃やされ、警察はそれを黙って見ている。
北朝鮮の行動も予測不可能だ。日本が中国を攻撃することは現実的にはないだろうし、何をするか分からない北朝鮮にでさえ先制攻撃はしないだろう。ただ、日本が将来的に集団的自衛権によって法的に自衛隊を送る可能性がある地域としてはパキスタン、イラク、シリア、北朝鮮などが挙げられると患う。
豪州は常に米国と行動を共にし、イラクやアフガニスタンにも派兵したが、それは良い決定ではなかった。いずれの地も武力紛争が続き、国家として成り立っていない。結局、米国はパンドラの箱を開けただけだった。
フレーザー元豪首相は近著「危険な同盟国」で「オーストラリアは自治を失い、独立国ではなくなってきている」と警告している。豪州と同様、日本も米国の属国となり、米国から独立した外交政策が取れなくなる恐れがある。米国は日本の軍事力を使ってアジアを支配しようとするようになる。将来的な憲法第9条の改正にもつながるだろう。
西太平洋を見てほしい。豪州と日本という同盟国が100%米国をバックアップしている。豪州はすでに独立していない。日本の独立もこのままでは危ういだろう。集団的自衛権の行使容認に多くの日本人が反対しているのは、賢い選択だ。
現在世界で最も不安定なアジア地域にあって、将来的な戦争を防止しようとしているからだ。日本国憲法のどこにも集団的自衛権という言葉はない。憲法第9条を守ろうとしている日本人はもっと世界から称賛されるべきだ。
「集団的自衛権という軍服」という表現は的を射ている。氏の言っている、「日本も米国の属国となる恐れがある」は違うと考える。もう属国となっているのである。豪州と違うのは平和憲法があることである。

2014年7月16日水曜日

名言・警句


二木立氏の「医療経済・政策学関連ニューズレター」の私の好きな名言・警句の中から一部紹介する。
山口明雄(メディアトレーニング講師)「誤解されない話し方のヒント」
質問には本質から答える、(2)『話してもわからない』を前提に話す、(3)話し相手の願望[感情、興味、希望]に合わせる、(4)話し相手のレベルに合わせる、(5)専門用語は仲間と専門家以外に使わない、(7)カタカナ言語、略語はだめ、(7)舌足らず、説明不足は誤解のもと、(8)Yes, but返答法』は避ける[柔らかい対応としての効果はあるかもしれませんが、誤解を防ぐという点からはまずい](9)ぼかし言葉は極力使わない、(10)できる限り比較しない[『さすが』『意外と』『比べて』は相手を怒らせる三大表現]」。
「炎上しない話し方・6つのヒント」
ネガティブな話をしない、(2)差別的な発言をしない、(3)犯罪を肯定するようなことは言わない、(4)批判は慎重に、(5)話し相手を錯覚しない、(6)他人に関わるコメントは、根拠と説明を十分に」(『誤解されない話し方、炎上しない答え方』ディブカヴァー・トウェンティワン,2013,99-130161-169頁。古市憲寿『だから日本はズレている』(新潮新書,2014,115)が、テレビのワイドショーで行った「皮肉のつもり」の(不用意な)発言が「プチ炎上」した体験を踏まえて、後者のアドバイスを紹介)。二木コメント-本書は「逆ピラミッド式での話し方」(重要なことから順番に話していく)をベースにして、「誤解されない話し方」、「炎上しない答え方」のポイントを分かりやすく説明しており、大学の管理職(特に、弁の立つ教員と対応しなければならない教員管理職)の「必読書」と思いました。ただし、「誤解されない話し方のヒント」の(8)(Yes, but返答法」)は全否定すべきではなく、(3)との「使い分け」が必要と感じました。また、一番大事なこと=「余計なことはしゃべらない」が抜けていると思います。
私は、特にカタカナ言語、略語をやたら使わないように気をつけている。わかったような錯覚に陥るからだ。

 

2014年7月11日金曜日

想定外

 
 私は、新聞を読むときは、なるべく小さな記事を見逃さないようにしている。小さな記事程重要な内容が多いからだ。メディアの提供側は、読ませたい記事は大きく、読ませたくない記事は小さくするものだ。テレビでも、いい番組は夜の遅い時間帯が多い。
 そんな眼で新聞を読むと面白いと思う。
 今回、紹介するのは、毎日新聞の小さなコラムである。
発信箱
青野由利専門編集委員
首相は語らない
もし、大統領と同じエレベーターに乗り合わせたら。そんな頭の体操を聞いたことがある。時間が短いので話せるのは一言だけ。では、乗り合わせたのが安倍晋三首相だったら?
ここはやはり、「集団的自衛権の憲法解釈変更に伴うリスクについて、正面から答えないのはなぜ」と尋ねたい。たとえば、閣議決定後の記者会見。「(自衛隊員らの)犠牲を伴うかもしれないが、国民に必要な覚悟は?」。
AP通信記者の質問への答えは、どの部分が回答なのか、さっぱりわからないまま。政府の問答集でも「自衛隊員が海外で人を殺し、殺されることになるのでは?」という問いの答えが「自衛隊の任務は(中略)我が国と国民を守ることです」。まるで禅問答だ。 
他国を刺激し緊張感を高めることも、「平和国家」日本への信頼を失うリスクもある。なのにプラス面しか語らない。そんな「リスク隠し」を見ていると、原発安全神話が頭をかすめる。
原発も、本来は持つことのメリットと事故の危険性を国民によく説明した上ではかりにかけ、対策を打つ必要があった。にもかかわらず、リスクに日をつぶり、過酷事故は起きないことにしていた。その結果があの惨事だ。再稼働に向けても「世界一厳しい基準」という楽観的な言葉でリスクをあいまいにしている。特段の根拠も示さず「日本が再び戦争をする国になることはあり得ない」と断じる楽観性と通じる部分がある。
この先もリスクを語らないまま、解釈改憲の大きな代償を払うことになった時、安倍首相は何と言うのか。思わず、「想定外」という言葉が浮かぶのが恐ろしい。
なんとも恐ろしい話である。

2014年7月9日水曜日

似て非なる日中の文化


毎日新聞の小さなコラムに「海外からの発信箱」がある。79日のコラムは
似て非なる「日中の文化」と題して 李薇 中国社会科学院日本研究所長が書いている。一部紹介する。
中国と日本は、似ているようで実は似ておらず、近いようで遠い。共に漢字を用い、文化の表向きの部分は似ているため、中国人や日本人は一般的に「通じ合える」と考え、自分たちと同じように行動し、考えることを当たり前だと思ってしまいがちだ。実際には、考え方や文化の深いところではかなり異なっている。中国語と日本語は文法が違うのもその表れだ。このような事情の認識不足から、双方の心理に多くの疑問や不信感が存在している。相手の国の真の姿をはっきり理解するのは実は相当難しい。両国民の考え方の違いを見直すことが、相互理解を深める前提だと思う。
このような相違は、両国の学者による学術討論の場でも表れる。日本側の学者は、中国側の学者について「問題意識が広すぎて具体的な問題に取り組まない」と感じ、中国側の学者は、日本側の学者について「細かいことにこだわりすぎて問題の本質を軽視している」と受け止める。しかし別の見方をすれば、違いに注目することは相互の改善点を見直す好機にもなり得る。
互いの違いを見いだし、相手の真の姿を知ろうと努力することは、認識不足や誤解、緊張の高まりを防ぐことにつながる。両国でこうした取り組みはまだまだ不十分だと私は感じている。中国と日本は数千年の往来の歴史の中で、敵でもあり、友人でもあった。両国関係がますます難しくなる中、冷静に相手を理解し、違いを見いだし、地道に対話を続けることが、共通点を導き、安定した友好関係を築くことにつながると信じている。
現在の日中関係を考えるとき、中国の人が書いているこの中身を改めて日本政府に届けたいと思う。違いを認めたうえでの粘り強い外交を望みたい。

2014年7月4日金曜日

読書の快楽


「エリートたちの読書会」という変なタイトルの本を借りた。著者は村上陽一郎である。どんな本かと思って読み始めてた。出だしの一部を紹介する。
読書の快楽
電子番緒では味わえないもの
最近は電子書籍の普及が目立ちます。平成二十四年(2013)は電子書籍元年だという人もいます。著作権のなくなった、とくに外国の古い書物が、次々に電子化されているのは、学問の世界にいる人間としては、とても有り難いと言える場面が、確かにあるのです。
通常なら、図書館に出かけて(それも蔵書のなかに、目当ての書物があるかないか、先ずは調べなければなりませんが、そこでも電子的方法が活躍しています)、時間をかけて漸く入手する、あるいは、どの図書館にもない本だと、海外に出かけた時に、古本屋などを巡って、何とか探し当てるという習慣がついてしまいました。その手間と時間とを考えると、電子化されたものの「正当性」に一抹の不安はいつも残るものの、とにかく、接しられるだけでも大いに助かる、ということも多いのです。
ただ、やはり書物を手にして、一ページ一ページめくりながら、読み進む時の快楽は、電子書籍にはないことも確かでしょう。そう、快楽と書きましたが、若い人々が、その快楽を知らない可能性がなきにしもあらず、という思いが、これからの本書の記述を進める動機の一つになりました。
蔵書家でも、稀覯本蒐集家でもない、 一介の学者に過ぎない私の器量で、どこまで、快楽の快楽らしさを伝えることができるか、心許ないことは承知しているつもりではありますが。
読書に対する考え方は私と同じであるが、難しい本を紹介している。最後まで読むことができるか・・。読み終わったら、感想を書きたい。