2014年9月29日月曜日

禁断のスカルペル


 日経の連載小説「禁断のスカルペル」作者、久間十義。主人公は東子は女医、理由あって、東北の民間病院に勤務している。透析患者さんの家族の事が書かれているところを紹介する。
透析は腎臓を治す手段ではない。あくまでも働きが悪くなった腎臓にかわって、身体の中の毒素や余分な水分を取り除く治療だ。個人差はあるが、患者はおよそ四、五時間の透析を週に二、三回行うことになる。
伊達湊病院の透析センターは患者一人あたり、週三回の通院をカバーできる一日二交替のフル態勢を整えていた。そしてその患者は、泌尿器科の“神の手”陸奥哲郎医師や東子が関わる患者と多く重なっていた。
都会の大病院であれば、蛋白尿が出ていたり慢性腎臓病だったりすると腎臓内科、腎臓の腫瘍や結石については泌尿器科、と住み分けができている。だが、ベッド数が二百床あまりの伊達湊病院には、そもそも腎臓内科が設置されていない。いきおい陸奥や東子たちは腎疾患について何でも屋になる。それこそ食餌指導や薬物療法、透析、そして腎移植にいたるまで、科目横断的に引き受けることが多くなるのだ。
「透析となると、時間が拘束されるからお父様も大変ね」そう言った東子に、純子は顔を曇らせて答えた。
「ええ。今までも塩分やタンパク質を減らすなど、食べ物の制限がすごかったんですが、透析になるともっともっと制限が多くて大変だって、母が嘆いてます」
東子は頷いた。腎臓病は長時間透析装置の前に縛りつけられる透析患者ばかりでなく、すべての患者たちがトータルな生活の我慢を強いられる。その影響は家族にも及ぶから、腎臓病との闘いは患者一人ではなく、家族ぐるみの闘いになるのだ。
東子はちらり、と純子の家族の奮闘に思いを馳せた。純子の家が平均的な庶民であるならば、長らく働き手の父親がCKD (慢性腎臓病)を患っているのだ。それなりの金銭的苦労を強いられているに違いない。
純子の父親は透析によって救われるし、彼女たち家族の希望もそこにある。日本の透析患者は二十万人超。医療業界にとって透析は実はビッグビジネスとして成立しているのだが、一方でそれは患者や純子たち家族の喜びも悲しみも飲みこんで存在しているのだ。東子は純子を前にして、そのことをつよく意識していた。
透析のこと、その患者さんの事など、専門的な本からよりも、こういう小説からの方がよくわかる例は多い。それにしても作者はよく勉強している。
(スカルペルとは外科用メスのこと)

2014年9月26日金曜日

ブラック企業


今野晴貴+ブラック企業被害対策弁護団著の「ドキュメントブラック企業」を読む。その中であらためてブラック企業とはどういう企業なのかを認識したので、その部分を紹介する。
ブラック企業間題とは何か
「ブラック企業」という言葉が最初に現れたのは、2000年代の中ごろにIT企業に勤める労働者がインターネット上に書き込んだときです。
ITは近年急激に広がった業界で、労働環境が厳しいことで知られています。業界には「35歳定年」という言葉もあるほどで、年齢を重ねて体力や技術力がおとろえると、容赦なく退職を迫られるというのです。最近では、外食、小売り、介護、保育などの新興企業を中心に、こうした「使い捨て」の正社員が増加しているとみられています。
90年代後半以降、若者の雇用に非正規雇用労働が広がりました。「格差」「貧困」が叫ばれるようになるなかで、就職活動中の学生の間には、「何としてでも正社員になろう」という気運が広がりました。そこにつけ込むように現れたのが、ブラック企業です。
ブラック企業は「正社員」として新卒を大量に採用する一方で、彼らを次々に使い潰して利益をあげるような会社です。有名な大企業であることも多いため、学生はこぞって大企業・正社員を当てにしてブラック企業に入ってしまうというわけです。ブラック企業の「正社員」は、いわゆる「ふつうの正社員」とは違っています。一口で言えば、終身雇用がなく、短期間に使い潰すような働かせ方をするのです。
「ブラック企業」はイメージとしては誰でもわかるが、「正社員」「有名な大企業」が主たるものであることとはあらためて知った。「正社員」は「ふつうの社員」とは違うということなのだ。

2014年9月22日月曜日

迦陵頻伽(かりょうびんが)


石牟礼美智子・米良美一共著の「母」なる本を読んだ。どういう取り合わせかと思ったが、読みおわったら成程となった。同じ九州の生まれ(熊本と宮崎)
 方言も近い。生家が同じ「石屋」。石牟礼道子さんが、米良さんのことを書いている部分を紹介。
迦陵頻伽(かりょうびんが)の声  石牟礼道子
苦労人である。初々しい見かけの人なのに、とても三十代後半とは思えない人生の見方。芸術家といえば、世間とはまるで無縁の人を思い浮かべるけれども、この人は人生の達人のような哲学を持っていた。
生まれついての難病で、ご両親は余程に苦労をされたらしい。九州山地の殿様の血筋でありながら、ご両親は土方人夫をしてこの類まれな少年を育てられたと聴く。土方人夫といえばわたしの家も同じである。
その妙なる歌を真近にききながら思っていた。原初の頃、生類たち、つまり草の祖(おやたちが夢みていた美なるものには、自ずから定まった色というものがあったに違いない。野山には、苔の花の類から山芍薬の類に至るまで、千草百草の花たちが四季折々、全霊をこめて咲いていただろう。その歌皇戸にすれば、迦陵頻伽の声になるのではないか。
わずか三歳の男の子が、「岸壁の母」を歌って、年寄りたちが涙を流し,おひねりの「お花」を投げてよこした、という感動的な情景に、わたしも立ち会いたかった。いたいけな子がどんな声で歌ったのか、年寄りたちが泣いたと言うから余程に深い魂の声であったろう。
後年、治療不可能と思えるほどの難病にかかる運命を背負いながら、あの世とこの世を行き来する魂が、人間の運命をけなげに歌いきってみせるその情景は、一服の聖画である。長じて今、目の前にいる現実の米良さんは声だけでなく、肌のきれいな青年だった。宮崎弁を話す時のこの人は、実に親しみ深い。
九州弁の中でも、そのイントネーションといい、言い回しといい、私は昔から宮崎弁が大好きである。お祖父様が石屋さんである、というのも、我が家が石屋であったので、特に親しみを感じてしまった。
米良さんの声は、カウンターテナーと呼ばれているが、一メートルぐらい目の前で歌う米良さんを見ながら、仏教説話でいう迦陵頻伽の声ではないかと思っていた。上半身は仏、下半身は鳥で、この世のものとは思えない声だそうだ。じかに話を聞いていて、西洋の天使よりも、迦陵頻伽と言い直したほうが、私にはしっくりする。
米良美一の名前は知っていたが、詳しくは知らなかった。見た目とは違うしっかりした人である。

 

2014年9月18日木曜日

原子力発電は止められるか


以前、紹介した「人にはどれだけの物が必要か」という本に「原子力発電は止められるか」という部分がある。興味深いので紹介する。
原子力発電は止められるか
地球環境保全の見地だけから言えば、水のもつ位置のエネルギーのみを利用する水力発電は、現在のところ環境に対する負荷が一番小さくその意味で最も好ましい発電方式と言えよう。だが国土の狭いわが国では、現在以上に水力発電を増強することは、ダムを建設する適地が最早ないという理由で望み薄である。
重油などを燃やす火力発電所は、日本では世界で最も優れた脱煙脱硫装置を備え、また排熱の有効利用なども進んでいて効率が極めて高い。しかしそれでも重油が燃焼する際に排出される膨大な量の二酸化炭素(炭酸ガス)ばかりはどうにもならない。これが地球温暖化の大きな要因となるわけだ。
この点で優れているのは、二酸化炭素を全く排出しない原子力発電であるが、これはこれで万一の事故の場合の深刻な被害を考えると、手放しで賛成できるものではない。殊に日本は世界で最初に原爆の被害を受けた国であるだけに、国内に石油がない以上原子力に頼る他ないと割切って、フランスがしているように全電力使用量の七十パーセント以上も原子力発電に依存するようなわけにいかないのは当然であろう。
さて地球の環境に悪影響を及ぼし、全生態系の安定を崩すような行為は、たとえそれが経済的に引き合うものであっても、また私たちに快適さをもたらすものであっても、可能な限り抑制すべきだという地救()原理の立場から言えば、いまの日本人ぜいたくの電気の使い方は、最早賛沢を通り越して犯罪的と形容せざるを得ないと思う。
かく言う私も必要な電気は使いたいし、本を読む時など或る程度の明るさがなければ困る。しかし最近公園や商店街などでよく見かける屋外照明具の、上向きにつけた水銀燈の本来ならば反射笠のあるべきところが、素通しのガラスになっているものなど、光の大半が路面ではなく空を照しているのだから、電気の無駄遣い以外の何物でもないと思う。
本当に必要な電気だけを使うように心掛けるという意味では、ネオンサインを始めとする各種の広告燈のたぐい、そして近年流行しだした建築物のライアトップなども、効果の少なくなる深夜には消燈すべきだと思う。また最近各地のガソリンスタンドが、目も眩むほど明るい派手な色の電燈を、昼間から競ってつけ出した。
私はこのような電力浪費の流行を見るにつけ、原子力発電の危険を指摘し、ちょっとした装置の故障が発表されるたびに、「ホレ見ろ、言わんこっちゃない」といった第三者的な調子で大々的に報道する日本のジャーナリズムの姿勢に、大きな疑問と不満を感じている。
たしかに私も原子力発電は恐しい危険を学んでいると思う。だからこそ原子力発電をしないで済むよう、不要不急の電力の消費を極力抑える努力をすべきなのである。新聞やテレビなどはむしろ常々この点を繰返し強調し、明らかに電力の浪費と思われる事例を指摘し、自粛を求める論陣を張るべきではないだろうか。
私も著者の言う通りだと思う。24時間煌々と電気をつける社会からは、節電という発想は出てこない。身近なところからの節電に心がけたい。

2014年9月16日火曜日

読書術


 ひさびさにわが家の書棚を見た。かなり前に購入した「読書術」GOMA SELECT(黒川康正)が眼に留った。調べてみると絶版になっているようだ。その中で今すぐに役立つところを紹介する。
《集中読書を可能にする実戦テクニック》
・「こま切れ時間」を読書タイムに活用するために、いつもポケットサイズの本を持ち歩くようにする。
・喫茶店、駅のプラットホームなど、すべての「待ち時間」を読書タイムにする。
・一冊の本を読み終えてから次の本に移るより、複数の本を併読したほうが情報収集の効率が上がる。
・就寝前に読む本には、専門書よりも、頭をリラックスできる内容の本を選ぶ。
・通勤電車は、早く着くことより、座れるかどうかで通勤ルートを再桧討してみる。
・本を「小型化」すれば満員電車の中の読書も可能。
・読書に集中できない環境では、目次だけを読む、「インデックス処理」 をするなどの単純作業に徹する。
・興味がわかないのにマスターなければならない分野の本は、読書の「起爆剤」としてテレビ講座やニュース番組を利用する。
・十分に理解すべき重要情報は、何度も読むよりテープに吹き込んで聞くほうが効率がいい。
・耳で聞く読書は、自分でテープに吹き込まずに他人を使うほうが時間の節約になる。
・ 読書の邪魔をする騒音には、別な「爽普」で対抗する。
・読書のBGMは、小鳥のさえずりなど、自然の音をエンドレステープにしておく。
・読書は、「一日一冊」などノルマを課さないほうが得るものが大きい。
・読書を妨げる気になることは解決の見通しだけでも付けておく。
・まとまった休暇では、遊びと遊びの間に読書時間を設けたほうが効果が大きい。
 おびただしい本が生産され、短い命で絶版となっていく。わが家の書棚から新たな命を見つけ出すのも楽しい作業である。

2014年9月9日火曜日

臆病


二木立氏の「ニューズレター」の私の好きなメイゲン・警句の中から一つ紹介する。
柳沢協二(元内閣官房副長官補、防衛省出身で安全保障政策に詳しい)
「臆病なのは、自分が正しいかどうかを振り返ることのできる知的な行動の表れで慎重な態度。『自分が正しい』と蛮勇を振るって戦争を起こすより、臆病でいる方がはるかにいい」(「中日新聞」201481日朝刊「特報」。菅義偉官房長官が安倍内閣の支持率が下降傾向にあることに関連して「国民が安全保障に臆病だから」と発言したことを評してこう述べた)
臆病でありべき時と、臆病でなくてはならない時を区別することがますます重要になってくる。

2014年9月5日金曜日

ミニマム生活のすすめ


 言語学者の鈴木孝夫氏の「人にはどれだけの物が必要か」という本が売れているという。もう20年も前に書かれた本が、あらたに文庫本として出版された。ごくごく一部を紹介する。
たった一人で出来る省エネルギーの努力
私が実際に日常行っていることをお話ししたいと思います。私は「できるだけ少ない物、できるだけ少ないエネルギー消費でいかに最大の幸福を得るか」という病にとりつかれてもう二、三十年になります。ですから、なるべく物は買わない、買った物は何十年も使う、そして人が捨てた物は拾うという具合で、たとえばいましている時計は今年で四十年以上になります。まスイスで一九四五年に最初に出来た自動捲きの薄型ですが、四十年間世界中を歩くのにこれを使ってきました。勿論修理に金がかかりますが、それでも愛用しています。
それから、私が先ほど炭酸ガス何トンと計算したこの電卓も、実は拾った物ですし、愛用のカバンも父親が使っていたものを引き継ぎ、今年で六十年になります。勿論、毎日大学へ持っていきます。最近、手が取れそうになって修理するのに何千円もかかるという問題がありましたが。
また、私は毎日、朝晩三十分から一時間ずつ家の近所を回って、落ちているカンを全部拾い、リサイクルできるように酒屋の店先の集積場に持っていっています。犬の散歩の時、ただ犬の顔を見て歩くのは非生産的ですから、カンを拾って歩いており、人にはどれだけのものがいるか何千カンになったか分りません。全部踏みつけて平らにして容積を小さくする。そうすると、足を切ってみたりと馬鹿なことがずいぶんあるわけです。
紙も絶対に捨てません。小さなレシートでも原稿用紙でも何でも取っておいて十キロ、二十キロと溜めて古紙回収に出しています。更に、新聞紙も自分で購読しているものは勿論、大学へは車で通っていますが、その途中に新聞紙などがまとめて置いてあるとトランクに入れて持ち帰ります。月に約三百キロくらい新聞紙・雑誌を拾い、それを古紙回収業者にただで渡しています。
「地球を救っているんだ!」という喜びがあるので「お金はいらない」というのです。もっとも雑誌などは利益が少ないので、ただでないと引き取ってくれないという事情もありますが。おおげさに言えば、東京中の古紙を拾って歩きたいと思っているのですが、なにしろ言語学者としての仕事もあれば、研究所の所長としての仕事もあるので、自分の仕事をきちんとしながら、余った時間を出来る限り地球を駄目にしないような活動に使いたいと'ささやかながら行動しているわけです。
いまこそ読まれるべき本だと感じた。大量生産、大量消費をこのまま続けていくと地球が滅びる。今なお成長戦略叫んでいるいる政権に読ませてあげたい本である。

 

 

2014年9月3日水曜日

いい加減でない言葉


日経「シニア記者がつくるこころのページ」が毎週土曜日に掲載されている。830日は、文芸評論家の竹西寛子氏の「言葉を先人から学び直す」とい文章が載っている。その中で気になる部分を紹介する。
人間は、使う言葉以上にも以下にも生きていない
「学生時代、古典は知識として知っておかなければならない読む『べし』の世界でしたひところが自ら求めて読むと様相が違ってくるんです。古今和歌集でまず心に残ったのが『世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ』。『あるとは何か』と考え続けていた心にはしみわたりました」
「高校の先生に『どうしたら今の生徒に古典を教えられるか』と聞かれることがあります。『ご自身がいいと思われたものを、なぜいいと思われたのか素直に描写して伝えてください』と答えます。一首、一句でもいいから自分が本当にいいと思ったら離さない。他人が評価する作品のよしあしとは別です」
竹西さんは和泉式部の歌が好きだという。「なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮れはものぞ悲しき」の歌がすらすらとでる。「これが干年前の人の歌です。和泉式部というと好色を言われがちですが、詩人の理性がなければこういう歌は詠めません。好きになれば古典の世界は自然に広がっていきます」
編集者として出会ったのが本居宣長。言葉に開眼した。
「戦時教わった宣長は、愛国百人一首にあった『しきしまのやまとの心を・・・』の人。ところが文学全集の担当になって読み直すと全く違った人として現れました。人の生き方は言葉遣いに表れる。人間はその時々に使う言葉以上にも以下にも生きていない。言い訳のできない心そのものの表れとしての言葉。自分が言葉をいかにあいまいにしか考えてこなかったか反省しました」
「人に不愉快を強いないために自分の思いをできるだけわかりやすく伝え、相手の言うことを曲がって聞かないことが大切です。文章は書くのも読むのも全身運動。自分の体を通った言葉でなければ相手に届きません。大事なのは主語と述語で、余計な形容詞や修飾語は不要。いい加減な言葉はつとめて使うまいと努力しています」
「古典は言葉で生きた先人の形見です。いい加減でない言葉を使おうと思ったら、ものを見るときまずいい加減でない見方を求められます。古典のないところに現代の日本語はありません。教わることばかりです」
IT機器の中を無数の言葉が行き来する現代。「いい加減でない言葉」がどれだけあるのか。
「人間は、使う言以上にも以下にも生きていない」ずしんとくる言葉である。大事なのは主語と述語で、余計な形容詞や修飾語は不要、いい加減な言葉は使わない。これもまた然り。