2014年9月3日水曜日

いい加減でない言葉


日経「シニア記者がつくるこころのページ」が毎週土曜日に掲載されている。830日は、文芸評論家の竹西寛子氏の「言葉を先人から学び直す」とい文章が載っている。その中で気になる部分を紹介する。
人間は、使う言葉以上にも以下にも生きていない
「学生時代、古典は知識として知っておかなければならない読む『べし』の世界でしたひところが自ら求めて読むと様相が違ってくるんです。古今和歌集でまず心に残ったのが『世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ』。『あるとは何か』と考え続けていた心にはしみわたりました」
「高校の先生に『どうしたら今の生徒に古典を教えられるか』と聞かれることがあります。『ご自身がいいと思われたものを、なぜいいと思われたのか素直に描写して伝えてください』と答えます。一首、一句でもいいから自分が本当にいいと思ったら離さない。他人が評価する作品のよしあしとは別です」
竹西さんは和泉式部の歌が好きだという。「なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮れはものぞ悲しき」の歌がすらすらとでる。「これが干年前の人の歌です。和泉式部というと好色を言われがちですが、詩人の理性がなければこういう歌は詠めません。好きになれば古典の世界は自然に広がっていきます」
編集者として出会ったのが本居宣長。言葉に開眼した。
「戦時教わった宣長は、愛国百人一首にあった『しきしまのやまとの心を・・・』の人。ところが文学全集の担当になって読み直すと全く違った人として現れました。人の生き方は言葉遣いに表れる。人間はその時々に使う言葉以上にも以下にも生きていない。言い訳のできない心そのものの表れとしての言葉。自分が言葉をいかにあいまいにしか考えてこなかったか反省しました」
「人に不愉快を強いないために自分の思いをできるだけわかりやすく伝え、相手の言うことを曲がって聞かないことが大切です。文章は書くのも読むのも全身運動。自分の体を通った言葉でなければ相手に届きません。大事なのは主語と述語で、余計な形容詞や修飾語は不要。いい加減な言葉はつとめて使うまいと努力しています」
「古典は言葉で生きた先人の形見です。いい加減でない言葉を使おうと思ったら、ものを見るときまずいい加減でない見方を求められます。古典のないところに現代の日本語はありません。教わることばかりです」
IT機器の中を無数の言葉が行き来する現代。「いい加減でない言葉」がどれだけあるのか。
「人間は、使う言以上にも以下にも生きていない」ずしんとくる言葉である。大事なのは主語と述語で、余計な形容詞や修飾語は不要、いい加減な言葉は使わない。これもまた然り。

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