2015年1月30日金曜日

ピケティーと経済学


東洋経済の「ピケティー」特集号で、哲学者で早稲田大学教授の竹田青嗣氏は経済学の意見対立に対して面白い言い方をしている。以下、一部紹介する。
まずは、各人が違う価値観を持っていることを相互承認することだ。価値の問題も、実証的に議論すればどこかで正しい認識に達するという考えかたが残っているが、そうではなくて差異のあることが原理的だということを認めないといけない
人文科学では、お互いに価値などの差異を認めながら、ここまでなら一緒に普遍的な理論を作れると、原理的な基礎を作っていく必要がある。
言ってみれば、違う考え方を持っていても、社会的な衝突にならないルール作りだ。私は、人間社会はあらゆる意味においてルールで作られたゲームだと考えている。その本質は参加者みんなが生を肯定でき、楽しく生きられることだ。
ゲームでは、出身や体格、性別に関係なく相手に対等の権利を認めるところから始まる。みんなでルールを決めて、そのルールの下で楽しければ、それは正当性を持っている。もちろん最初からすべては予測できないので、どこかで誰かだけが得をしたりするなど、あまりに矛盾が出てきたらそのルールは変えられないといけない。そのルールに正当性がないと思ったときには、相手を同じ権利を持った人間として認められず、ゲームが成立しないからだ。
大昔、王国の時代は、戦いに勝った者が王様であり、すべてを取分配する。人類誕生以来ずっと原理だった。近代社会は可能性として初めて一人ひとりの人間に権限を与えて、自由で公正な社会というゲームを営む可能性を生んだ。考え方だけでなくて、それを可能とすることに必要な一定の生産性という条件も手にすることができた。しかし、資本主義はいったん確立されると既得権が独占される傾向にある。そうなるとゲームにおける対等な権利が守られず、人々はこの社会は公正だと思えなくなる。それが広がると必ず救済思想などが生まれて、それ自体は異議の表現であっても結果的に大きな矛盾を生み出す。
私は「徐々に、完全に公正で自由なゲームへ」と言っている。社会は必ず時間性を持ち、矛盾を抱えた今の状態から出発すほかない。一挙に理想的な世界は造りだせない。社会がよいゲームであるために何が必要か、どういう順序でそこを目指すか、という合意形成が重要だ。
ゲームという言葉を民主主義という言葉に置き換えるとわかりやすい。民主主義は面倒で時間がかかる作業である。面倒を厭わないことが必要である。

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