2015年2月26日木曜日

あいさつ


毎日新聞の日曜版に連載されている海原純子さんの「新・心のサプリ」から一部を紹介しよう。
最近転職したAさんは職場の雰囲気が暗くて、とぼやいている。暗い、という理由のひとつは、朝顔を合わせても「おはよう」と言わない人が半数以上なのだそうだ。
顔を合わせない人、「おはようございます」というAさんのあいさつに目を合わせようとしないまま「ん」とうなずくだけで言葉を発しない人などが多く、Aさんは「もうあいさつをするのをやめちゃおうかと思ったりするし、自分の性格が悪くなりそうな気になってしまう」と話していた。
改めて周りの人に職場で「おはよう」ってあいさつしますかときいてみたところ、驚いたことにかなり多くの方から「しないですね」という答えが返ってきた。時差出動で働いていて、自分が来た時はすでにデスクでパソコン業務をしている人がいるから特にあいさつをしないというケースもあった。
一流企業の入っている高層オフィスビルに行く機会が定期的にあるのだが、朝、警備の方たちが「おはようございます」と声をかけても、出勤してくる社員の誰一人としてそのあいさつに返事をしない。高い天井のオフィスビルの玄関で警備の方たちのあいさつだけが響き、外部から訪ねる私は何だかとても不自然な気まずい雰囲気を感じるのだが、これが当たり前になってしまうと何の不自然さも感じないのだろう。
以前ボストンの研究室にいたころ、研究室の入っているビルの1階にいる年配の警備員の男性と研究室の誰もが「ハロー」とあいさつし、帰りには「シーユー」と手を振っていた。2月の寒い時期、黒い肌にうかべた笑顔と一言で心が温まったのを思い出す。
おはよう、のあいさつを礼儀としてでなく、相手との心をつなぐ最短時間のコミュニケーションととらえてみてはどうだろう。明日の朝、おはようの口火を切っていい雰囲気を作っていただきたいと思う。
挨拶は礼儀としてでなく、最短時間のコミュニケーションとしての捉え方は素晴らしい。できれば挨拶は少し大きな、元気な声でしたいものだ。

2015年2月24日火曜日

若者よ 目を覚ませ


毎日新聞に隔週で掲載されている野坂昭如氏の「七転び八起き」に「若者よ、殺しあうのは君だ」と言うエッセイが載っている。一部紹介する。
日本はこれまで、アラブ・中東地域を抑圧したこともなければ、植民地支配したこともない。独立を手にした喜びは互いに共通している。日本独自の交流があって当然。
この70年、日本は外国に対して武力で威すことをしていない。アメリカが大国の正義、理想を唱えるのは自由、結構だが、日本が独立国であるならば、これに同調する必要はない。
戦争は気づいた時には、すでに始まっているものだ。集団的自衛権の行使容認、特定秘密保護法、戦争に向けての体制づくりが進められ、世間の無関心さがこれを支えてきたといえるだろう。テロ行為をよしとする過激派組織に心を寄せる若者が、世界に増えているという。
日本も例外とは言えない。これについて、けしからんと怒ったところで、そんな若者を生み出したのは我々である。
安倍晋三首相は戦争を知らない世代を前に、戦争の愚かさを説くよりも、テロに屈しない、罪を償わせる、受けてたつと鼻息あらい。罪を償わせるとは、具体的にどうするのか。
お上の言う、後方支援とは、戦争参加に等しい。アメリカは今後も突っ走る。悪であるテロリスト、正義の大国の二者択一。そんな単純なことではない。
安倍首相の矛盾は追及されぬまま。
住民基本台帳、国民総背番号制、いずれも徴兵制の基盤づくり。これに特定秘密保護法も加わり、戦争への下準備はほぼ整った。
これほど露骨にやられても、若者は怒らない。若者よ、目を覚ませ。戦争で殺し合うのは君たちなのだ。
住民基本台帳、国民総背番号制、はいずれも戦争への下準備であるという事を認識しておくことは重要である。特定秘密保護法は露骨すぎる。

 

2015年2月18日水曜日

日本は変わった?

 東洋経済に法政大学教授の山口二郎氏の「フォーカス政治」という文章が載っている。今回は“「テロとの戦い」と日本の針路、高揚感で憲法をいじるな”と題して論じている。人質を助けるためにはあらゆる手段を取るこことテロに断固屈しないという二つの命題について次のように言っている。
前者から見ておきたい。日本人殺害は、パリの新聞社への攻撃から始まる。 一連のテロの一環である。フランスをはじめ文明社会の人々は、言論の自由や寛容な社会を守るという強い意思表示を行った。テロとの戦いを唱える安倍首相の足元で、何が起こっているのか。
慰安婦報道に携わった元朝日新聞記者が勤務する北星学園大学に、2月初め入試を妨害し受験生に危害を加えるという脅迫状が届いた。慰安婦問題をはじめとする歴史認識に関しては、右翼や歴史修正主義者によるこの種のテロが相次いでいる。また、今でも街頭では在特会によるヘイトスピーチのデモが行われている。テロと戦う政治家は、これらの蛮行に対して、断固たる非難を行ったのか。安倍首相はインターネット上でネトウヨや歴史修正主義者に「いいね」をもらって喜んでいるではないか。首相や取り巻きが言うテロ非難は、真剣さを欠いている。
後者の問題においても、首相は主体的な決断について国民に説明していない。事件直後、首相は「日本は変わった。日本人にはこれから先、指一本触れさせない」と述べた。ここで自動詞の「変わった」を使うことは、あえて責任の所在をごまかすための話法である。彼の言う変わった日本は、以後、テロとの戦いに自衛隊が参加し、武力行使もする。その力を背景に、日本人を守ると叫んだのだろう。
彼が本当の政治家なら、ここでは他動詞の「変えた」を使い、自分が日本の方針を変えた理由とそれがもたらす帰結について国民に説明すべきであった。状況が変わったから軍事力行使を解禁する、国民は安心してついてこいと言うのでは、事変に追随して戦争の泥沼にはまった80年前の日本と同じである。
 安倍首相は「日本は変わった」ではなく「日本を変えたい、憲法を変えたい」と素直に言って国民に信を問わなくてはならない。日本語を知らないのか、知っていて話しているのか・・・・。

2015年2月13日金曜日

知的勇気


全国革新懇ニュース366に丹羽宇一郎氏のインタビュー記事が載っている。示唆に富んでいるので紹介する。
いま、日本の知識人について、たいへん憂えている。とくにここ数年は、ひどい。特定秘密保護法、集団的自衛権・・権力を問いただすべき問題がいくらでもあるのに、知識人、ジャーナリズムを含む有識者の発言が弱い。国民に対する責任をみずから放棄していることになる。権力に対しモノをいうのは当然のことだが、昨今の日本では、「知的勇気」も必要だ。
知識人がこんな状況では、国の羅針盤が故障しているようなものだ。日本の将来が危ぶまれる。
歴史を学ばない物は歴史を繰り返す
日中両国民に言いたいことのひとつは、日本人も中国人も、互いに相手を70年前のイメージでみているということだ。実際の日本人、中国人を知らないで言い合っているんだ。
先入観にとらわれず、「等身大」でみれば、本当の姿が見える。そうすればお互い絶対に必要な存在であり、そうならば仲良くしなければならないことがわかる。
安倍首相が「総理大臣」として、靖国神社を参拝したことは大きな問題となった。歴史認識の問題が問われている。
日本は先の戦争で無条件降伏し、連合国45カ国と講和条約を結んで国際社会に復帰した。そこで確定した歴史認識というものは海を越えた存在だ。これを土台にして戦後に確立した国際秩序に挑戦し、修正するがのように受け取られる言動を総理大臣がとるのはよくない。国際社会に通用はしないだろう。
米国議会図書館の礎石に刻まれている「歴史を学ばないものは歴史を繰り返す」という言葉に学ぶべきだ。駄々をこねているように受け取られてしまう。
だいたい日本の生命線は平和だ。自由貿易だ。日本は最も平和でなければ生きていけない国なんだ。戦後のアメリカ主導の平和体制を否定、修正することは、世界各国より理解を得られないだろう。
安定した雇用こそ企業の社会的責任
非正規社員ばかり増やしていたら(日本経済はダメになる。しっかりと教育し、まともな給与を出し、子どもを安心して育てられるようにしなければならない。安定した雇用こそ、企業の社会的責任だ。非正規社員が38%では、まともな事業などできず、会社もなりたたなくなる。
一部の人が何億円、何十億円ものカネを手にし、一方で年収200万円以下という人が増える社会はどこかおかしい。格差が固定化し、拡大してゆくと、社会不安がおきる。だから会社のためにも、社会のためにも、社員は、全部正社員にするぐらいのつもりで、と言っている。当たり前のことだし、普通の経営者なら考えることだ。
青年は努力が楽しくなるようになりなさい
格差社会で厳しいのはわかる。そんな歪んだ社会をただすのは大人の責任だ。そういうもとでも、あえて青年に直言したい。人間の遺伝子は、999%同じと言われている。努力が人を決める。努力は人を裏切らない。1に努力、2に努力、3に努力だ。そしてイチロー選手のように努力が楽しくなるようになりなさい、といいたい。もうひとつ。日に3回、身体には栄養を与えているんだから、心にも毎日、栄養を与える努力をしてほしい。期待している。(聞き手乾友行)
「心にも毎日栄養を」はまさに至言である。毎日の努力が大事である。

2015年2月9日月曜日

名言・警句


二木立氏の「医療経済・政策関連ニューズレター」の私の好きな名言・警句の中から紹介する。
トマ・ピケティ(フランスの経済学者。「政治歴史経済学」(a political and historical economics)の確立を目指す)
「社会科学研究は、一時的なもので不完全なものだし、それは今後も変わらない。経済学、社会学、歴史学を厳密な科学にするなどとは主張しない。でも事実やパターンを辛抱強く探し、それを説明できそうな経済、社会、政治メカニズムを落ち着いて分析すれば、民主的な論争の役には立つし、正しい質問に注目させることはできる。論争の条件を見直す役にも立つし、いくつかの暗黙の想定やまちがった想定を明らかにすることもできるし、あらゆる立場を絶えず批判的な検討にかけることもできる。私の見解では、これこそが社会科学を含む知識人の果たすべき役割だ。知識人は他の市民と同じ立場だが、でも研究に没頭する時間を他の人よりも持っているという幸運な立場に置かれた(そしてそれに対して報酬を得られるーこれは顕著な特権だ)人々なのだから」(山形浩生・他訳『21世紀の資本』みすず書房,2014,3-4)
二木コメント-社会科学の特徴と社会科学研究者の使命を簡潔にまとめていると思います。特に、最後の一文に大いに共感しました。逆に、私が一番嫌いなのは、「研究に没頭する時間を他の人よりも持っている」文科系大学の教員が、「忙しい」とか「忙しくて研究ができない」と発言(弁解)することです。私は、勤務先で教員がそのような発言をした場合、すぐに阿部謹也氏(一橋大学元学長。故人)の名言「学者は忙しいと思った瞬間ダメになる」(「朝日新聞」19901217日夕刊)を紹介し、諭して(?)ています(詳しくは、『医療経済・政策学の視点と研究方法』勁草書房,2006,165,「私の美学―『忙しい』とは絶対に言わない」)
私も、よく「忙しい」と言う人を見かける。ほとんどが仕事をやらなかった言いわけにしか聞こえない。

2015年2月6日金曜日

医師の一分


東洋経済の本の紹介欄に「医師の一分」を書いた日本赤十字センター化学療法科部長の里見清一氏へのインタビューが載っている。その一部を紹介する。
自己決定の尊重という大原則が医療現場を、そして患者本人をも縛っている。人間の死と日々向き合う医師がただす大いなる矛盾と、逡巡の先に到達した着地点。
 20年前はタブーだったがんの告知。今はもう当たり前ですね。
1990年、横浜の病院勤務時に、「さすがに言わなきやいけねえよな」と部長が肺がん患者に告知しました。当時その病院で告知したのは僕らだけ。全員に言うか言わないかどっちかなら、全員に言おうと。同じ抗がん剤打ってれば、告知してない患者にもいずれはバレる。
一点の風穴が開くと、告知は一気に広まった。それが2000年くらい。今では面と向かって「あと3カ月です」と言う医者もいる。極めて厳しい膵臓がんなど、昔はどう話そうか悩んだものだけど、今はあまり悩まなくなった。医者のパターナリズム(父親的温情主義)が否定され、“患者のために”医者が決定しちゃいけなくて、全部患者の自己決定に任せよということになってる。
 自分で決めろと言われても。
困るでしょ。患者が「先生にお任せします」と言うと、今日びの医者は「お任せされでも困ります」と突き返す。手術しろって言うならするけど成功率は20%、あなたの人生なんだから自分で決めて、というのは、さすがにどうよと思うんです。 
フランツ・インゲルフィンガーという食道がんの権威がいまして、30年前自身が食道がんになったとき、患者に自己決定を押し付けるのはやっぱり違うと痛感した。彼は第一人者だから誰より情報を持っている、でも決められない。結局、有能な同僚にすべてを任せました。彼は遺稿の中で「医者は自分で責任を負わねばならない。患者に負わせてはいけない。自分の経験を駆使して具体策を提示しようとしない医者はドクターの称号に値しない」と書きました。
自己決定の尊重というのは医者の逃げ口上としてはラクなんですよ。手術が失敗しても、お気の毒でした、でも私は事前に失敗の確率を申し上げましたよね、って言える。
里見さんは、患者の自己決定を信じない、と明言されてますね。
本人の意思なんてどんどん変わります。それに決められます? 自分が決めたことだからどうなろうと自分の責任、悔いはない、と笑って死んでいく人なんて現実にはいない。「やっぱりあのとき、手術はよしましょう、と先生に言ってほしかった」って言われるんです。自分で決めたことでも、やっぱり後悔しますわね。
僕はよく患者さんに「じゃあその治療で行きますけど、それは僕が決めたことだからね」と言います。僕もOKして決めたことだから、悪化したら僕も責任を持って次の措置を考える、と。患者が選んだ治療でも、結果オーライじゃなかったら謝って、次はこうしよう、とやっぱり医者が決めていくべきじゃないか。
確かに、単純に自己決定してくださいと言われても現実では困る。里見氏の言い分は「患者さんに、自信を持って治療方法を勧められるような医師になるように、研鑽しなさい」ということだろう。腕に自信がある医師とみた。

2015年2月4日水曜日

人質殺人事件


過激組織「イスラム国」による日本人人質殺人事件での政府の対応についてはきっちり検証すべきと考える。一般紙が抑制的に書いている中で、共同通信編集室長:杉田弘毅氏の評論はわかり易い。以下、紹介する。
「イスラム国」と日本は全面的な対決に入るのだろうか。そんな懸念を深めざるを得ない。後藤健二さんを殺害したとの映像声明で「イスラム国」は「おまえの国民を場所を問わずに殺りくする」とさらなる邦人殺害の予告ともとれるメッセージを出し、安倍晋三首相は「罪を償わせるために国際社会と連携していく」と強い言葉を発した。
米中枢同時テロの衝撃に、米国は荒々しくアフガニスタン戦争、イラク戦争に突き進んだ。今回の卑劣なテロには怒りに身が夢見る。しかし冷静に日本がとるべき道を考えたい。
日本は「親米」でありながら、「イスラムの友人の顔を持つ。この二つの顔が「矛盾」ととられ、その両立がいよいよ限界に来ている。
欧米による中東支配の歴史。その欧米とつながるアラブの抑圧的体制。石油確保とイスラエルの安全のために軍を駐留させる米国。こうした事態は、聖戦を口実に世界中のイスラム教徒の若者をテロ行為に吸い寄せた。
そして米国が始めたイラク戦争という暴挙のツケが大きい。米国は大義もなく政権を倒し、混乱の中、多数の市民が犠牲となった。イラク戦争が「イスラム国」を生んだと言える
邦人2人は安倍首相の中東歴訪前に拘束されていたのだから首相の中東での言動は「もっと注意を払うべきだった。外務省は情報収集を怠った」(シリア駐在経験のある外交官OB)と言えるのだろうが、「イスラム国」という異常な暴力組織を相手に何ができたのか、答えは出ない。
明確なのは、日本が米国とともに、「イスラム国」との戦いに参戦している、との印象が広まってしまったことだ。オバマ米大統領も日本を、対テロ政策の協力者としている。2004年にイラクで邦人を殺害した過激派は、「自衛隊のイラク撤退」を要求しており、この頃から日本は敵対勢力と位置づけられた。
日本は非欧米同士として、戦前からイスラム世界と良好な関係を築き、さまざまな支援は現地で高く評価されてきた。だが、中東和平への関与の薄れや日米同盟強化の政策の積み重ねで、「善意の友人のイメージは埋没しがちだ。中東で「手が汚れている」米国に寄り添う日本の行動はつけ込まれる懸念がつきまとう。
「テロに屈しない」という姿勢も「テロ対策強化」も当然だ。同時に人道・開発支援の増強も必要である。中東情報の収集・分析は欠かせないし、個々の日本人は賢い行動が求められる。しかし、何よりも「日本はアジアの、平和を愛す善意の国だ」という本来の姿を、言葉だけでなく地道な行動で復活させるのが、喫緊の課題ではないか。
安倍政権はこの事件を契機に一気に日本を「軍事国家」に仕立てようとしている。「9条改憲」の動きに注意が必要である。

2015年2月2日月曜日

ホームレスは犯罪?


ビッグ・イシュー255号から、在米ジャーナリスト岩田太郎氏の「米国・路上から」第4回を紹介する。
米国★路土から
飢える者を食べさせるという「犯罪」 岩田太郎
「米フロリダ州南部フオートローダーデール海浜公園で、ホームレスに食事を配っていた90歳の慈善活動家、アーノルド・アポットさんが、警察に連行された」 
飢える者を食べさせることが犯罪化されたと報じる、この2013118日付ロイター電を読み、心を痛めた人は多いだろう。
ところがどっこい、アポットさんはその後も逮捕されていない。全世界の注目を浴び、当局者は手荒なことができなくなったのだ。
しかし、この条例をはじめ、「たむろ禁止条例」や「物乞い禁止条例」が全米各地の自治体で施行され、ホームレスであること自体がさまざまな名目で犯罪化され続けている。
筆者が住むイリノイ州の大学街にある商店やレストランでは、ホームレスをすぐ通報する店もあれば、トイレの使用を黙認し、追い出さない店など、対応はさまざまだ。
路上生活者と最も直接的に接するのは商人であることが多い。できる限り、人間的な扱いをしようとする店もある。フオートローダーデールの条例を推進したのは、政治的影響力を持つ地元商工会議所やビジネス団体だ。同情できる面もある。ホームレスの人たちが、店舗周辺で所構わず大小の排泄をしたり、ごみを捨てたりするからだ。身なりの汚い、臭気を発する路上生活者が店の近くにいては、売り上げが落ちる。
だが、路上生活を犯罪化すると、彼らが生きるために必要な場所や食事まで奪うことになり、「すべては自己責任、弱者は生きるな」という強いメッセージを送る結果になる。また、非人間的な対応をする商人だけを非難しても、問題は解決しない。
フオートローダーデールでは、路上生活者に230床の「ハウジング・ファースト」と呼ばれる短期のシェルターを無償で提供し、恒久的な住居に移れるよう援助する試みも始まっている。
ホームレス問題のこじらせ方は、社会の諸問題の縮図だが、そこにこそ社会全体の課題を解決するカギがある。ホームレスは犯罪ではなく、混沌とした世界を調和に導く処方箋の宝庫だから。
最後に書いてある「ホームレスは犯罪ではなく、混沌とした世界を調和に導く処方箋の宝庫」という言葉はすごい。日本の現状にそのまま当てはまる。