2011年7月28日木曜日

畑田重夫

民医連医療8月号に載っている畑田重夫氏の「メディアへの眼」第4回「日本の政治家と官僚」の記事の中でなるほどと思ったことがある。畑田氏といえば、だいぶ前になるが、東京都知事選挙に立候補された国際政治学者で、山梨民医連も過去何度か講師として呼んだことのある人である。まだお元気なようで、ほっとしている。以下、その中の一部である。
大地震からとっくに3カ月が過ぎました。しかし、日本の政治家たちは、「国権の最高機関」(憲法41)である国会の内と外とで、相変わらずみにくい「権力争い」や「勢力争い」を続けています。東北の被災地からきこえてくるのはつぎのような怒りやあきらめの声ばかりです。
「政治家たちは自分のことだけ。その日が被災地に向いているとは思えない」「被災者はみんな生きてゆくことに精いっぱい。仮設住宅なり雇用なりの対策をしっかりしてほしい」「被災者の行く末をしっかり示すのが政治家の役割り。こんな状態で、私たちは誰を信じて生きていけばよいのか」
東日本大震災は、日本の原子力政策の不備はもちろんのこと、何よりも日本の政治と政治家の体質を内外にいっそうはっきりと露呈し、国内ではますます「政治不信」のひろがりと、その結果としての「政党支持なし層」の増加をみることになっています。もちろん、まともに国民の立場にたつ政党もあり、すぐれた政治家もこの国にはいます。しかし、それはまだ少数政党であり、少人数であって、現状では日本の政治の流れを変える力にはなりえません。日本全体としてみれば、すぐれた理論家や政策マンをふくむ人材も豊富に存在していると思います。だが今の議院内閣制をふくむ日本の政治制度や選挙制度のもとでは、いま、ただちにそれらの能力を国政に反映させるわけにはいきません。
こういうときにもっとも警戒しなければならないのは、主権者である国民のなかに国政への無関心や投げやりの気持がひろがることです。歴史は、往々にしてこういうときに、独裁的・強権的政治家の出現をみることを訓えているからです。さて、日本の大半の政治家、とくに民主・自民を中心とする与野党の政治家たちは、なぜ被災地の人々をふくむ国民から感覚がかけはなれるのでしょうか。それは自分の保身しか考えていないからです。
選挙で当選して国会議員になれば、ただちに「先生、先生」と言われ、歳費にはめぐまれるし、生活に困ることはまず絶対にありません。人間というのは、いったんめぐまれた境遇に身をおくと、それを失うことに大きな抵抗を感じるものなのです。それが総理や大臣ともなればなおさらのことです。したがって、常に考えることは「いつまでもいまの地位を守り続けたい」「次の選挙でもまた当選しなければならない」ということになります。「東北の被災地へ行っても、自分の得票には直接プラスにはならない」と考えると、どうしても足は東北ではなくて、自分の選挙区に向かうことになります。

こんな時、身を捨てて、国ではなく、国民のために働いてくれる政治家が期待される。しかし、自分自身の利益、会社の利益のみに奔走する資本家、政治家ばかりでは被災者は救われない。

2011年7月25日月曜日

人は誤解されるもの

何度も引用するが、「東洋経済」の北川達夫氏のわかりあえない時代の「対話力入門」は考えさせられることが多い。今回の話は菅首相の記者会見が記者の間で評判が悪い話から始まっている。以下、少し長いが概要を記す。

「自分の都合のよいときにしか、会見しようとしない」と、報道記者の間では評判が悪い。この姿勢を批判するのは簡単だ。不特定多数の人々に向かって語りかけるのは、本質的にリスキーな行為である。自分の発した言葉が、どのように解釈され、評価されるのか。自分ではコントロールできないからだ。
失言や暴言となれば、政治生命を脅かしかねない。それにもかかわらず、政治家に失言や暴言が多いのは不思議である。前に「女性は子どもを産む機械」と発言した厚生労働大臣がいた。こういう発言を聞くと、その政治家の政治生命のみならず、全人格を否定したくなる人もいることだろう。ただ、発言の評価は、知識・経験・価値観に依存する部分が大きいので注意を要する。ちょっと前に仙谷官房長官(当時)は、国会において自衛隊を「暴力装置」と表現し、ごうごうたる非難を浴びた。マックス・ウェーバーの言葉を引用しただけだと思うのだが、あまりにもインパクトが強すぎたのだろう。 
政治家の発言が騒動を巻き起こすたびに、私は「印象形成」という言葉を思い出す。印象形成とは、特定の人物について、ごく限られた情報を手掛かりにして、その全人格を決め付けてしまうことである。
面白いことに、善人のイメージよりも、悪人のイメージのほうが形成されやすい。民衆を庇護する黄門様より、虐待する悪代官のほうが思い描きやすいのだ。
これについては、いろいろな意見があるだろう。「その人の本質は、言動の端々に表れる」ということで、印象形成を肯定する人は少なくない。ちょっとした失言や失態から、全人格が透けて見えるというわけだ。確かに、一理ある見解である。ただ、他者の人格を即断する人に限って、自分の人格を他者に即断されることは許さない。言葉尻だけをとらえて、一方的に決め付けられてはかなわない。誤解もいいところだ、と言うのである。他者に厳しく、自分に優しい。人間とは身勝手なものだ。悲しいものだ。
友人・知人のことは、どうしてもひいき目に評価しがちだ。いいことをすれば「いい人なのだから当然だ」と人格に結び付けて考え、悪いことをすれば「何か理由があるに違いない」と弁護してしまう。
これを「根本的要因の錯誤」という。
本人を知っているだけに、かえって評価の日が曇ってしまうのだ。その人物のことをどれほど知っていれば、正しく評価する「資格」が得られるのだろう?
言動の一端から、全人格を決め付けられることもありうる・・これが社会の現実だろう。そういう世間の「誤解」と、友人・知人の「ひいき自分については、原則として「誤解されるもの」と考えるようにしておく。「他者はわかってくれるだろう」という甘えが、対話的な発想と態度を阻害するからだ。
失言や失態を繰り返す政治家には、この種の「甘え」が感じられる。
だが、他者とは「わかってくれない」ものであり、「ごくわずかな情報を手掛かりに、全人格を決め付ける」ものなのだ。その点が理解できないのなら、政治家のような不特定多数の評価にさらされる職には就かないほうがよい。
対話をする場合、他者についても自分についても、人物評価にとらわれないのが一番である。
 「誤解」も「ひいき目」も、対話の障害にしかならないからだ。だが、人間はそうそう虚心になれるものではない。ならば、他者についての評価は「柔らかく保つ」のが得策である。「この人はこういう人なのだ」と、信念を固めない。その人について新たな情報が得られるたびに、人物評価もあらためて下すのである。
「形式」と「内容」で発言全体を評価する発言を評価する場合、もう一つ注意すべき点がある。それは「内容」と「形式」を分けて考えるということ。
発言の内容そのものに問題があるのか。それとも、口調や声音や態度など、発言の形式面に問題があるのか。内容と形式の評価を統合した結果、どのような総合評価が下せるか・・ということである。そんなこと、どうでもいいじゃないか、と思われるかもしれない。実際のところ、メディアが政治家の発言を取りざたする場合、内容も形式もない交ぜにして評価することのほうが多いのである。
だが、世の中には、とても受け入れられないほど乱暴な口調で傾聴に値する内容のことを言う人がいる。その一方で、誰にでも受け入れられるような優しい口調で、とんでもないことを言い出す人もいるのだ。コミュニケーションにおいては、形式が意外なほど重要である。
発言の内容を聴く「前に、形式で拒絶してしまうことが多いからだ。「言っていることはわかるけど、そんな言い方をしなくたっていいじゃないか」という具合に。
私個人としては、このような自分の気持ちに配慮を求める発想も「甘え」に感じられて、あまり好きではない。とはいえ、これが現実であろう。内容がどれほどよくても、「命令口調で言われたから、受け入れられない」「あの人が言っているから、納得できない」と、拒絶されてしまうのである(後者は「根本的要因の錯誤」でもあるが)最近、首相を筆頭に政治家の発言は、内容以前に形式で拒絶されていることが多いように思う。 
これは、政治家の「言葉の力」と「人徳」のなさによるものか。

私もそうであるが、人を簡単に「どのような人間か」を評価してしまう。逆に自分の評価については、「おれは、そんな単純な人間ではないぞ」と考えている。あらためて「人は誤解されるもの」と考えて、自分を理解してもらえるような、対話力を身に付ける訓練し、「言葉の力」「人徳」を磨きたいものである。

2011年7月22日金曜日

津波太郎(田老)

 吉村昭氏の「三陸海岸大津波」と言う本が、書店の震災関連コーナーに並んでいたので、早速購入して読んだ。吉村昭と言えば、歴史に興味ある方なら、歴史小説を読んだことはあるだろう。私も何冊かは読んだ。しかし、記録文学として大津波本を出しているとは知らなかった。今から40年も前に、このような本を書いていたとは・・・
 明治以降、繰り返し三陸を襲った大津波の貴重な証言・記録である。その一部を紹介する。
 
津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。しかし、明治29年、昭和8年、昭和35年と津波の被害度をたどってみると、そこにはあきらかな減少傾向がみられる。
死者数を比較してみても、明治29年の大津波・・・26360名 昭和8年の大津波・・・2995名 昭和35年のチリ地震津波・・・105名と、激減している。
流失家屋にしても、明治29年の大津波・・・9879戸 昭和8年の大津波・・・4885戸 昭和35年のチリ地震津波・・・1474戸と、死者の減少率ほどではないが被害は軽くなっている。その理由は、波高その他複雑な要素がからみ合って、断定することはむろんできない。しかし、住民の津波に対する認識が深まり、昭和8年の大津波以後の津波防止の施設がようやく海岸に備えはじめられてきたことも、その一因であることはたしかだろう。
高地への住居の移動は、容易ではないが意識的にすすめられていたことも事実である。そして、それと併行して住民の津波避難訓練、防潮境その他の建設が、津波被害を防止するのに大きな力を発揮していたと考えていい。その模範的な例が'岩手県下閉伊郡田老町にみられる。
田老町は、明治29年に死者1859名、昭和8年に911名と、2度の津波来襲時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であった。
「津波太郎(田老)という名称が町に冠せられたほどで、壊滅的打撃を受けた田老は、人の住むのに不適当な危険きわまりない場所と言われたほどだった。
しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが環境に恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどできようはずもなかったのだ。
町の人々は、結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿勢をとった。まずかれらは、昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設をはじめ、それは戦争で中断されはしたが960メートルの堤防となって出現した。さらに戦後昭和29年に新堤防の起工に着手、昭和333月に至って全長1350メートル、上幅3メートル根幅最大25メートル、高さ最大7.7メートル(海面からの高さ10.65メートル)という類をみない大防潮堤を完成した。またその後改良工事が加えられ、1345メートルの堤防が新規事業として施行されている。この防潮堤の存在もあって、チリ津波の折には死者もなく家屋の被害もなかったのである。

今回の震災では、田老地区では70数名の人が犠牲となった。これだけの津波対応をしてもでてしまったのだ。言い方を変えれば、これだけの対応をしたから、70数名の犠牲で終わったとも言えるが、こんな簡単な総括などできる訳がない。

2011年7月19日火曜日

「は」と「が」の使い分け

 井上ひさしの「日本語教室」の紹介が続くが、その中でなるほどと思った文章があったので、紹介する。私も、以前からこの件については気になっていたことであった。

「は」と「が」の使い分け
日本語を教えている学校に、ぼくは韓国人のふりをして通ったことがあります。たまたまだったかもしれませんが、そこでは「は」と「が」の使い分けで終始していました。
私たちは「むかしむかしある所に、おじいさんとおばあさんは住んでいました」とは言いませんね。「おじいさんが山へ芝刈りに、おばあさんが川へ洗濯に」とも言いません。自然に「は」と「が」の違いを身につけています。でも外国の人にとってはこの区別はなかなかむずかしいそうです。
これにはいろいろな説がありました。「は」は題目であり、強調の意味があるという説が有力でした。つまり、「おじいさんは山へ」というときは、「おじいさんについて言えば」ということ、「おじいさん」を強調して言っているのだという考え方です。なんとなくこの説で納得していたのですが、大野晋先生がこの間題を徹底的に研究されました。もうこれで決まりだと思いますので、かいつまんで紹介しましょう。
大野説を一言で言ってしまうと、既知の旧情報には「は」を、未知の新情報を受ける場合は「が」を使うということです。「むかしむかしある所に、おじいさんとおばあさんが住んでいました」―はじめておじいさんとおばあさんが出てくるのですから、まだ誰も知らないわけですね。だから「が」を使います。次に「おじいさんは山へ」というときには、そのおじいさんは、ある所に住んでいるおじいさんに決まっているわけで、旧情報です。おばあさんについても同じで、ある所に住んでいるおばあさんに決まっています。別のおばあさんだったら大変です()
では、「私は井上です」と「私が井上です」の使い分けはどうなるでしょうか。たとえば全く未知の集団で「どなたが井上さんでしょうか」と言われたときは、「私が井上です」と答えると思います。また、自分が井上であることはもう知られていると思っていたのに「あなたは上田さんですよね」と言われたら、「私は井上です」と言うでしょう。
「は」と「が」に関して長いあいだ議論になっていた「象は鼻が長い」も、大野理論ですっきり解けます。つまり象そのものは既知のことですから「象は」で、「鼻が長い」は新情報なので「が」になるということで納得ですよね。
「東京は人口が多い」も同じで、主語が二つあるわけではありません。「みなさんが知っている東京について言えば」で「東京は」、人口のことが話題になるとは誰も知らないので、未知で扱って「人口が多い」となります。大野先生の説を非常に簡単にまとめてしまいました。大野先生の著書はたくさん出ていますから、興味のある方は是非読んでみて下さい。

 今、日本は小学生から英語を教えようとしている。このような日本語の奥深さを理解しないまま、英語を教えることに矛盾を感じるのは、私だけだろうか?はたしてどんな日本人になるのだろう?

2011年7月13日水曜日

日本語教室

井上 ひさし(いのうえ ひさし、193411月17 - 20104月9)氏は、日本小説家、劇作家、放送作家である。文化功労者日本藝術院会員本名井上 廈(いのうえ ひさし)と言うが、最近「日本語教室」と言う本が最近出版された。日本語を生きるこれからの私たちへ、“やさしく、ふかく、おもしろい”最後のことばが散りばめられている本であるが、その中での脱線した話を紹介する。

メリー・ホワイトというボストン大学の社会学の先生が「ニューズウィーク」誌に書いた「アメリカはよい国か」というタイトルのエッセイをご紹介しましょう。僕は感動して、もう全文暗唱しています。「アメリカはよい国か。イエス」とまず書いてあるんです。いい国である。「ただし、奴隷制や、先住民抑圧や、日系人の強制収容や、無差別爆撃や、原子爆弾の投下や、ベトナム戦争がなければの話だが」と続くのです。この人はサービスに、「日本はよい国か」とも同時に書いています。やはり「イエス。素晴らしい国である」と。そして「ただし」というのが、また入るんです()。「台湾・朝鮮の植民地化、満州国のでっち上げ、それから沖縄とアイヌに対する差別、被差別部落、それから在日韓国・朝鮮人に対する抑圧、それから従軍慰安婦問題、そして南京虐殺を除けばだが」と続いています。
これを読んで僕は、結論が出たなと思いました。完璧な国などないわけですね。かならずどこかで間違いを犯します。その間違いを、自分で気がついて、自分の力で必死で、苦しみながら乗り越えていく国民には未来があるけれども、過ちを隠し続ける国民には未来はない。つまり、過ちに自分で気がついて、それを乗り越えて苦労していく姿を、他の国民が見たときに、そこに感動が生まれて、信頼していこうという気持が生まれるわけです。ところが、自分の国はほとんどいいことばかりしていて、あのときはしょうがなかったという人たち・・、一見、愛国者に見えますが・・そういう人たちの国には未来はない。なぜなら、他の国から信頼されないからです。
日本の悪いところを指摘しながら、それをなんとか乗り越えようとしている人たちがたくさんいます。私もその端っこにいたいと思っていますが、そういう人たちは売国奴と言われています。でも、その人たちこそ、実は真の愛国者ではないのでしょうか。完壁な国などありません。早く間違いに気がついて、自分の力で乗り越えていくことにしか未来はない、ということを、今回の講座の脱線と結びにいたします。

彼が亡くなってもう1年が経過した。この話がされた時は今から10年程前であるが、新鮮さを失っていない。彼のように、日本語に対して深く、広く、長く、考察した人はいないのではないか。

2011年7月11日月曜日

老いと幸福

精神科医でありながら、いろんな執筆をしている、春日武彦氏の「老いへの不安」
という本を読んだ。サブタイトルで「年を取り損ねる人たち」とあった。著者は1951年生まれで私より1つ上である。ほぼ同年代の人のエッセイなので興味深く読んだ。その中で面白かった一遍を紹介する。
【パン屋での出来事】
もう十年近く前の話である。新宿にあるデパートの地下のベーカリーへ立ち寄った。美味いが高価といった位置づけの酒落た店である。右手にトング、左手に四角い盆を持ってうろうろしていたら、一人の老人が目に入った。七十歳くらいの男性であろうか。どちらかといえば痩せ形で、背筋が伸びている。晩年の藤山一郎(歌手)に風貌が似ている。健康であることや、体力年齢の若さをひそかに自慢するタイプに見えた。もちろん気も若そうであるが、節度は心得ているようであった。薄青いジャケットを着た外見は、金銭的にも生活にも余裕があることを窺わせる。彼が独りでこの店に来てパンを買っている姿には、それなりに日常を楽しんでいるといった気配があり悠々自適といった言葉を連想させるものでもあった。
以下、その老人をミスター藤山と呼ぶことにするが、店内でちょっとしたアクシデントが出来したのである。彼は一斤のイギリスパンを盆に載せていた。そして歩いている途中で、何かの弾みで盆が傾いてしまったらしい。横滑りしたイギリスパンは縁を乗り越えて「あっ」という間に床に落ちてしまったのである。床の上で、パンはフロアに剥き出しのまま転がっている。そんな事態に、わたし以外、不思議なことに店員も客も誰も気づいていないようであった。ミスター藤山は、あわててパンを拾い上げた。焦っていのだろう、素手でパンを掴んでいた。左手の盆に戻し、表情にはほんの少しばかり赤みが差しているようであった。わたしは、ぼんやりと彼の様子を眺めていた。すると次の瞬間、彼は大股でイギリスパンが並べてある棚へ戻って行った。老人にしては意外なほどのきびきびした身ごなしで、ミスター藤山は床から拾い上げたパンを今度はトングを使ってさっと棚へ戻し、別のイギリスパンをあらたに自分の盆へ載せた。そうして、またしてもきびきびとした足取りでレジの列へ並んだのである。
まるで、何事もなかったかのように。わたしは呆然としたまま立ち尽くしてしまった。今、目の前で起きたことは、いったい何だったのだろう?セルフサービス形式なのだから、客が盆からパンを落としてしまうようなことだってあるだろう。普通、そんな場合は自己責任として客はそれを購入するのが常識というものであろう。ただし、もし店員がそのようなアクシデントに気づいた場合、おそらく「お客様、大丈夫ですか」とか言いながら商品を新しいものに交換してくれるのではないか。少なくとも服装や雰囲気が店にマッチした客であったなら、そうしてくれるほうが自然だろう。弁償しろとか引き取れなどと剣呑なことは言うまい。つまりミスター藤山がパンを落とした時点で取るべき態度は、苦笑しながらゆっくりとイギリスパンを拾い上げようとする。するとその様子に気がついた店員が駆け寄り、パンを取り換えてくれる。彼は「やあ、すまんねえ」などと言いながら、あえて好意に甘える。その瞬間の彼には、飄々としたトーンがにじみ出ているだろう。店としては、人品卑しからぬ老人をフォローすることで接客態度のポイントを上げることになる。なるほど店は一斤のイギリスパンの代金を失ったことになろうが、こうしたやりとりもまた店の衿持を示すといった意味では決して損とばかりは言えないのではないか。だから老人も店も、双方ともなごやかにエピソードを閉じられることになる。と、そんなことをわたしは考えるわけである。
にもかかわらず、ミスター藤山の振る舞いはあまりにも自分の立ち位置を自覚していない。見苦しいではないか。あさましいではないか。他人ならば、床に落ちたパンを食べても構わないというのか。そこまで自分勝手なのか。あのこせこせした動作はどうだろう。卑しい。情けない。恥知らずである。彼はこうした不慮の事態においてこそ、その外見に相応しい「品のある老人」としての身振りを示す義務があると思う。自分の失敗に対して、年輪ゆえの貫録というか、高齢であるがための愛矯というか、そういったもので周囲を上手くい動かし収めてしまう。それこそが老人の義務であり、歳を取るとは老いぼれることではなくこんなふうにすんなりとアクシデントを乗り切れるような空気を身にまとうことなのだと、若い者に知らしめなくてはなるまい。うわべばかり上品ぶって、最低な奴だな。ああいう老人を指して「馬齢を重ねる」と称するべきではないか、などとわたしは甚だ不快に思ったのであった。
矜持自信誇り
馬齢自分年齢卑下していう語
著者は老いについて論じることは、結局のところ幸福について考えをめぐらすことだと言っている。まだまだ私のように、年をとっても大人気ない、往生際が悪い老人予備軍には、ドキッとする話である。どういう風に年をとれるのか・・悩ましい問題である。

2011年7月6日水曜日

希望的観測という病


サンデー毎日の717日号に「日本にとりつく希望的観測という病」というタイトルでの記事が載っている。興味ある内容なので、長くなりますが概要を以下に記します。

兵庫県こころのケアセンター参与で精神科医の中井久夫氏は阪神・淡路大震災で精神科救急のコーディネートに当たった。東日本大震災後、中井氏の手記を再び多くの人が手にとったが、中井氏自身は経験を法則化して当てはめることに警告を発している。心のケアの重要性がさけばれています。
しかし、「心のケア担当」なんて腕章を巻いて避難所に乗り込んでも誰も相談には来ません。心のケアはそっとやるものです。大災害などにあって起きる病状を表すPTSD (心的外傷後ストレス障害)は阪神・淡路大震災時、誰も診療したことはありませんでした。僕は予防に越したことはないと考え、まず精神科医が避難所を巡回し、その人の力量で避難所の緊張した雰囲気を和らげることを目指しました。精神科医は花を持って訪れ、お土産をもらって帰ってきました。仮設住宅も訪問すること自体がよい影響を与えました。
誰かがそばにいてくれることがいかにありがたいか。被災者を孤立感から救うことが第一課題です。被災者は自分が孤独ではないと感じ、体験を分かち合う。その後、生活再建を考えることができるのです。いま新聞から大震災関連の記事が徐々に減ってきて、東北の人々が忘れかけられています。災害の記事は読んで楽しいものではないから、それは無理ないでしょう。忘れられる時が危機だと言われます。その時期の始まりでしょうか。
災害は自然相手に始まりますが、時間が経過すると問題は人間相手に移ってゆき、話がややこしくなります。復興・復旧の過程では同じ被災者という感覚が薄れ、個人間や、市町村の間で社会的な格差が生じてくるのです。
中井氏の『災害がほんとうに襲った時阪神淡路大震災50日間の記録』(みすず書房)は東日本大震災後、ノンフィクションライターの最相葉月さんが中井氏了解のうえ、ウェブサイトで無料公開している。大震災後再編集された『復興の道なかばで、阪神淡路大震災1年の記録』()には、被災者の貧富や才覚、運不運の違いによって、生活再建の程度が〝ハサミ状に″分かれていく様や、現地の支援者が疲れていく様子が克明に記される。・・・略・・・
そして、最悪の事態も想定して考えた方がいい。最悪は考えたくないものです。考えたくないような事態があり得ると意識していればいいが、日本人は恐ろしいから最悪を考えないことにする傾向があります。日本にとりついているのは希望的観測という病気です。最悪の事態の可能性を見て見ぬふりをするのです。原発を例にとってみましょう。福島の原発がチェルノブイリのように爆発するだとか、そのようなことが起きるかもしれない。それでも、日本人は生きていかなければなりません。また、原子力がもともと存在しなかった場合を想定して、電力や経済はどうなるのかをデザインしてみることも必要でしょう。最悪を想定して、それに呑まれずに状況に応じて対応するよう心がけるか、心がけないかで相当違ってきます。
なかい・ひさお1934年奈良県生まれ。京都大医学部卒業。神戸大教授、甲南大教授を経て、2004年兵庫県こころのケアセンター所長。07年から参与。「分裂病と人類」「徴候・記憶・外傷」など著書多数。詩集の翻訳も。

新聞記事からも、だんだんと震災、原発記事の量が少なくなりつつあります。311日の大震災が遠い事のようにならないようにするためには、この「希望的観測という病」にならいよう、心がけることが重要だと思う。

2011年7月2日土曜日

震災と僧侶

個人的な話になるが、今年の4月に母が亡くなった。僧侶は私の幼馴染で、3つ年下で、めんこ、ビーダマでよく遊んでやったものだ。その僧侶のビジネスライクの対応の仕方、儀式の荘厳さのなさにあきれ返ってしまった。
松本市の住職である、高橋卓志は震災直後から宮城県に医療支援に入り、又、僧侶として死者を弔ってきた。こんな僧侶の存在に心が洗われる思いだ。
「大震災のなかで」(岩波新書) 以下、抜粋。
私はいままで僧侶として、死の周辺を歩いてきた。南太平洋の島々では、戦没者の遺骨を収拾し、遺族や遺児の号泣の中で、辛いお経をよんだ。1991年から医療支援で入ったチェルノブイリでは、子どもたちの死に出会い、悲しむ両親の傍らで手を合わせた。1998年からは、タイのエイズホスピスで、一日に何名もの患者を看取り現地のお坊さんとともに見送りの儀式に臨んだ。そして、寺の住職としての日々に、死は日常としてあった。
いままで、いのちの汀から死に至るまでを、ずっと私は見続けてきたともいえる。そのたびに、死に逝く一人ひとりに、想いを馳せ、遺族の悲嘆に寄り添うことを心掛けてきた。しかし、それらは何の役にも立たなかった。100体ものご遺体を前にした瞬間、私の死を視た体験は崩れ去っていった。いままでの死とはボリュームがまったく違う、すさまじい死がそこにあった。
枢の中の1人ひとりが、津波に襲われ、のみ込まれる瞬間、何を思ったのだろう、苦しかっただろう、痛かっただろうと、そんな思いが交錯した。それは強烈な痛みとなり、傷となって私の内面を襲った。
大津波から10日経った3月21日の朝のことである。この日から、ご遺体安置所での読経は私の日課となった。3月26日朝、安置所に新しい枢が二体運び込まれていた。傍らには40代の女性と女の子が花を手にして立っていた。その女性は、すこし微笑みながらこう言った。「今朝、見つかったんです。じいちゃんとばあちゃん。自分の家のがれきの下から二人揃って見つけてもらったんです。よかった。じいちゃんは自分の家で死にたいって言っていたし、ばあちゃんと緒だったから‥」。辛く、悲しく、苦しい中で、彼女は「よかった」と言った。何かにすがり、納得しょうとしていることがわかる言葉だった。
大津波は、沿岸の町や村をのみ込むと同時に、日本仏教をものみ込んだ感がする。この災禍により私たち僧侶は、いままでの在り方(生き方)、役割、社会との関わりなどを真剣に問い直さねばならなくなった。被災現場はいま、生きるために必要なモノを優先取得し、必要ないモノは容赦なく切り捨てている。伝統仏教は、そして僧侶はどうなのか。伝統や檀家制度に守られた仏教が、これらを身につけることができるかどうか。高座から説教する仏教から、地を這って人々の「苦」に寄り添える仏教に戻れるかどうか。これらの問い直しも迫られている。いま、2万5000人もの死者・行方不明者によって、伝統仏教の喉元に刃が突き付けられている。
無宗教の私であるが、あらためて自分の死に方を考えさせられた。