2011年7月25日月曜日

人は誤解されるもの

何度も引用するが、「東洋経済」の北川達夫氏のわかりあえない時代の「対話力入門」は考えさせられることが多い。今回の話は菅首相の記者会見が記者の間で評判が悪い話から始まっている。以下、少し長いが概要を記す。

「自分の都合のよいときにしか、会見しようとしない」と、報道記者の間では評判が悪い。この姿勢を批判するのは簡単だ。不特定多数の人々に向かって語りかけるのは、本質的にリスキーな行為である。自分の発した言葉が、どのように解釈され、評価されるのか。自分ではコントロールできないからだ。
失言や暴言となれば、政治生命を脅かしかねない。それにもかかわらず、政治家に失言や暴言が多いのは不思議である。前に「女性は子どもを産む機械」と発言した厚生労働大臣がいた。こういう発言を聞くと、その政治家の政治生命のみならず、全人格を否定したくなる人もいることだろう。ただ、発言の評価は、知識・経験・価値観に依存する部分が大きいので注意を要する。ちょっと前に仙谷官房長官(当時)は、国会において自衛隊を「暴力装置」と表現し、ごうごうたる非難を浴びた。マックス・ウェーバーの言葉を引用しただけだと思うのだが、あまりにもインパクトが強すぎたのだろう。 
政治家の発言が騒動を巻き起こすたびに、私は「印象形成」という言葉を思い出す。印象形成とは、特定の人物について、ごく限られた情報を手掛かりにして、その全人格を決め付けてしまうことである。
面白いことに、善人のイメージよりも、悪人のイメージのほうが形成されやすい。民衆を庇護する黄門様より、虐待する悪代官のほうが思い描きやすいのだ。
これについては、いろいろな意見があるだろう。「その人の本質は、言動の端々に表れる」ということで、印象形成を肯定する人は少なくない。ちょっとした失言や失態から、全人格が透けて見えるというわけだ。確かに、一理ある見解である。ただ、他者の人格を即断する人に限って、自分の人格を他者に即断されることは許さない。言葉尻だけをとらえて、一方的に決め付けられてはかなわない。誤解もいいところだ、と言うのである。他者に厳しく、自分に優しい。人間とは身勝手なものだ。悲しいものだ。
友人・知人のことは、どうしてもひいき目に評価しがちだ。いいことをすれば「いい人なのだから当然だ」と人格に結び付けて考え、悪いことをすれば「何か理由があるに違いない」と弁護してしまう。
これを「根本的要因の錯誤」という。
本人を知っているだけに、かえって評価の日が曇ってしまうのだ。その人物のことをどれほど知っていれば、正しく評価する「資格」が得られるのだろう?
言動の一端から、全人格を決め付けられることもありうる・・これが社会の現実だろう。そういう世間の「誤解」と、友人・知人の「ひいき自分については、原則として「誤解されるもの」と考えるようにしておく。「他者はわかってくれるだろう」という甘えが、対話的な発想と態度を阻害するからだ。
失言や失態を繰り返す政治家には、この種の「甘え」が感じられる。
だが、他者とは「わかってくれない」ものであり、「ごくわずかな情報を手掛かりに、全人格を決め付ける」ものなのだ。その点が理解できないのなら、政治家のような不特定多数の評価にさらされる職には就かないほうがよい。
対話をする場合、他者についても自分についても、人物評価にとらわれないのが一番である。
 「誤解」も「ひいき目」も、対話の障害にしかならないからだ。だが、人間はそうそう虚心になれるものではない。ならば、他者についての評価は「柔らかく保つ」のが得策である。「この人はこういう人なのだ」と、信念を固めない。その人について新たな情報が得られるたびに、人物評価もあらためて下すのである。
「形式」と「内容」で発言全体を評価する発言を評価する場合、もう一つ注意すべき点がある。それは「内容」と「形式」を分けて考えるということ。
発言の内容そのものに問題があるのか。それとも、口調や声音や態度など、発言の形式面に問題があるのか。内容と形式の評価を統合した結果、どのような総合評価が下せるか・・ということである。そんなこと、どうでもいいじゃないか、と思われるかもしれない。実際のところ、メディアが政治家の発言を取りざたする場合、内容も形式もない交ぜにして評価することのほうが多いのである。
だが、世の中には、とても受け入れられないほど乱暴な口調で傾聴に値する内容のことを言う人がいる。その一方で、誰にでも受け入れられるような優しい口調で、とんでもないことを言い出す人もいるのだ。コミュニケーションにおいては、形式が意外なほど重要である。
発言の内容を聴く「前に、形式で拒絶してしまうことが多いからだ。「言っていることはわかるけど、そんな言い方をしなくたっていいじゃないか」という具合に。
私個人としては、このような自分の気持ちに配慮を求める発想も「甘え」に感じられて、あまり好きではない。とはいえ、これが現実であろう。内容がどれほどよくても、「命令口調で言われたから、受け入れられない」「あの人が言っているから、納得できない」と、拒絶されてしまうのである(後者は「根本的要因の錯誤」でもあるが)最近、首相を筆頭に政治家の発言は、内容以前に形式で拒絶されていることが多いように思う。 
これは、政治家の「言葉の力」と「人徳」のなさによるものか。

私もそうであるが、人を簡単に「どのような人間か」を評価してしまう。逆に自分の評価については、「おれは、そんな単純な人間ではないぞ」と考えている。あらためて「人は誤解されるもの」と考えて、自分を理解してもらえるような、対話力を身に付ける訓練し、「言葉の力」「人徳」を磨きたいものである。

0 件のコメント:

コメントを投稿