2011年7月2日土曜日

震災と僧侶

個人的な話になるが、今年の4月に母が亡くなった。僧侶は私の幼馴染で、3つ年下で、めんこ、ビーダマでよく遊んでやったものだ。その僧侶のビジネスライクの対応の仕方、儀式の荘厳さのなさにあきれ返ってしまった。
松本市の住職である、高橋卓志は震災直後から宮城県に医療支援に入り、又、僧侶として死者を弔ってきた。こんな僧侶の存在に心が洗われる思いだ。
「大震災のなかで」(岩波新書) 以下、抜粋。
私はいままで僧侶として、死の周辺を歩いてきた。南太平洋の島々では、戦没者の遺骨を収拾し、遺族や遺児の号泣の中で、辛いお経をよんだ。1991年から医療支援で入ったチェルノブイリでは、子どもたちの死に出会い、悲しむ両親の傍らで手を合わせた。1998年からは、タイのエイズホスピスで、一日に何名もの患者を看取り現地のお坊さんとともに見送りの儀式に臨んだ。そして、寺の住職としての日々に、死は日常としてあった。
いままで、いのちの汀から死に至るまでを、ずっと私は見続けてきたともいえる。そのたびに、死に逝く一人ひとりに、想いを馳せ、遺族の悲嘆に寄り添うことを心掛けてきた。しかし、それらは何の役にも立たなかった。100体ものご遺体を前にした瞬間、私の死を視た体験は崩れ去っていった。いままでの死とはボリュームがまったく違う、すさまじい死がそこにあった。
枢の中の1人ひとりが、津波に襲われ、のみ込まれる瞬間、何を思ったのだろう、苦しかっただろう、痛かっただろうと、そんな思いが交錯した。それは強烈な痛みとなり、傷となって私の内面を襲った。
大津波から10日経った3月21日の朝のことである。この日から、ご遺体安置所での読経は私の日課となった。3月26日朝、安置所に新しい枢が二体運び込まれていた。傍らには40代の女性と女の子が花を手にして立っていた。その女性は、すこし微笑みながらこう言った。「今朝、見つかったんです。じいちゃんとばあちゃん。自分の家のがれきの下から二人揃って見つけてもらったんです。よかった。じいちゃんは自分の家で死にたいって言っていたし、ばあちゃんと緒だったから‥」。辛く、悲しく、苦しい中で、彼女は「よかった」と言った。何かにすがり、納得しょうとしていることがわかる言葉だった。
大津波は、沿岸の町や村をのみ込むと同時に、日本仏教をものみ込んだ感がする。この災禍により私たち僧侶は、いままでの在り方(生き方)、役割、社会との関わりなどを真剣に問い直さねばならなくなった。被災現場はいま、生きるために必要なモノを優先取得し、必要ないモノは容赦なく切り捨てている。伝統仏教は、そして僧侶はどうなのか。伝統や檀家制度に守られた仏教が、これらを身につけることができるかどうか。高座から説教する仏教から、地を這って人々の「苦」に寄り添える仏教に戻れるかどうか。これらの問い直しも迫られている。いま、2万5000人もの死者・行方不明者によって、伝統仏教の喉元に刃が突き付けられている。
無宗教の私であるが、あらためて自分の死に方を考えさせられた。

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