2011年7月28日木曜日

畑田重夫

民医連医療8月号に載っている畑田重夫氏の「メディアへの眼」第4回「日本の政治家と官僚」の記事の中でなるほどと思ったことがある。畑田氏といえば、だいぶ前になるが、東京都知事選挙に立候補された国際政治学者で、山梨民医連も過去何度か講師として呼んだことのある人である。まだお元気なようで、ほっとしている。以下、その中の一部である。
大地震からとっくに3カ月が過ぎました。しかし、日本の政治家たちは、「国権の最高機関」(憲法41)である国会の内と外とで、相変わらずみにくい「権力争い」や「勢力争い」を続けています。東北の被災地からきこえてくるのはつぎのような怒りやあきらめの声ばかりです。
「政治家たちは自分のことだけ。その日が被災地に向いているとは思えない」「被災者はみんな生きてゆくことに精いっぱい。仮設住宅なり雇用なりの対策をしっかりしてほしい」「被災者の行く末をしっかり示すのが政治家の役割り。こんな状態で、私たちは誰を信じて生きていけばよいのか」
東日本大震災は、日本の原子力政策の不備はもちろんのこと、何よりも日本の政治と政治家の体質を内外にいっそうはっきりと露呈し、国内ではますます「政治不信」のひろがりと、その結果としての「政党支持なし層」の増加をみることになっています。もちろん、まともに国民の立場にたつ政党もあり、すぐれた政治家もこの国にはいます。しかし、それはまだ少数政党であり、少人数であって、現状では日本の政治の流れを変える力にはなりえません。日本全体としてみれば、すぐれた理論家や政策マンをふくむ人材も豊富に存在していると思います。だが今の議院内閣制をふくむ日本の政治制度や選挙制度のもとでは、いま、ただちにそれらの能力を国政に反映させるわけにはいきません。
こういうときにもっとも警戒しなければならないのは、主権者である国民のなかに国政への無関心や投げやりの気持がひろがることです。歴史は、往々にしてこういうときに、独裁的・強権的政治家の出現をみることを訓えているからです。さて、日本の大半の政治家、とくに民主・自民を中心とする与野党の政治家たちは、なぜ被災地の人々をふくむ国民から感覚がかけはなれるのでしょうか。それは自分の保身しか考えていないからです。
選挙で当選して国会議員になれば、ただちに「先生、先生」と言われ、歳費にはめぐまれるし、生活に困ることはまず絶対にありません。人間というのは、いったんめぐまれた境遇に身をおくと、それを失うことに大きな抵抗を感じるものなのです。それが総理や大臣ともなればなおさらのことです。したがって、常に考えることは「いつまでもいまの地位を守り続けたい」「次の選挙でもまた当選しなければならない」ということになります。「東北の被災地へ行っても、自分の得票には直接プラスにはならない」と考えると、どうしても足は東北ではなくて、自分の選挙区に向かうことになります。

こんな時、身を捨てて、国ではなく、国民のために働いてくれる政治家が期待される。しかし、自分自身の利益、会社の利益のみに奔走する資本家、政治家ばかりでは被災者は救われない。

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