2011年7月22日金曜日

津波太郎(田老)

 吉村昭氏の「三陸海岸大津波」と言う本が、書店の震災関連コーナーに並んでいたので、早速購入して読んだ。吉村昭と言えば、歴史に興味ある方なら、歴史小説を読んだことはあるだろう。私も何冊かは読んだ。しかし、記録文学として大津波本を出しているとは知らなかった。今から40年も前に、このような本を書いていたとは・・・
 明治以降、繰り返し三陸を襲った大津波の貴重な証言・記録である。その一部を紹介する。
 
津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。しかし、明治29年、昭和8年、昭和35年と津波の被害度をたどってみると、そこにはあきらかな減少傾向がみられる。
死者数を比較してみても、明治29年の大津波・・・26360名 昭和8年の大津波・・・2995名 昭和35年のチリ地震津波・・・105名と、激減している。
流失家屋にしても、明治29年の大津波・・・9879戸 昭和8年の大津波・・・4885戸 昭和35年のチリ地震津波・・・1474戸と、死者の減少率ほどではないが被害は軽くなっている。その理由は、波高その他複雑な要素がからみ合って、断定することはむろんできない。しかし、住民の津波に対する認識が深まり、昭和8年の大津波以後の津波防止の施設がようやく海岸に備えはじめられてきたことも、その一因であることはたしかだろう。
高地への住居の移動は、容易ではないが意識的にすすめられていたことも事実である。そして、それと併行して住民の津波避難訓練、防潮境その他の建設が、津波被害を防止するのに大きな力を発揮していたと考えていい。その模範的な例が'岩手県下閉伊郡田老町にみられる。
田老町は、明治29年に死者1859名、昭和8年に911名と、2度の津波来襲時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であった。
「津波太郎(田老)という名称が町に冠せられたほどで、壊滅的打撃を受けた田老は、人の住むのに不適当な危険きわまりない場所と言われたほどだった。
しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが環境に恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどできようはずもなかったのだ。
町の人々は、結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿勢をとった。まずかれらは、昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設をはじめ、それは戦争で中断されはしたが960メートルの堤防となって出現した。さらに戦後昭和29年に新堤防の起工に着手、昭和333月に至って全長1350メートル、上幅3メートル根幅最大25メートル、高さ最大7.7メートル(海面からの高さ10.65メートル)という類をみない大防潮堤を完成した。またその後改良工事が加えられ、1345メートルの堤防が新規事業として施行されている。この防潮堤の存在もあって、チリ津波の折には死者もなく家屋の被害もなかったのである。

今回の震災では、田老地区では70数名の人が犠牲となった。これだけの津波対応をしてもでてしまったのだ。言い方を変えれば、これだけの対応をしたから、70数名の犠牲で終わったとも言えるが、こんな簡単な総括などできる訳がない。

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