2012年2月15日水曜日

足尾と原発

赤旗に「足尾鉱毒問題と「3・11」原発事故」というタイトルの記事があった。今から100年以上もまえの「鉱毒問題」の対応があまりに、「原発事故」と似ていてびっくりする。以下、その一部。
東日本大震災の被害、なかんずく東京電力福島第1原発の事故は、明治期後半に起きた渡良瀬川足尾鉱毒問題と重なります。
汚染の土壌は今日の「毒塚」
原発と同じように、足尾銅山は国策に支えられて発展しました。産銅量急増の陰で広がりつつあった渡良瀬川下流域住民の健康や農漁業被害=鉱毒が一気に表面化したのは1890(明治23)の大洪水でした。
この時、土壌分析で銅成分が検出されたにもかかわらず、銅山は加害を認めませんでした。政府は、田中正造の国会質問に対し、銅山の言い分そのままに「原因はわからない」としつつ、増産のための粉鉱採集器が被害除去に役立つかのように装い、「その効果を待つ」と答弁しました。
今回の原発事故で東電の発表を鵜呑みにした政府の説明を私たちはどれほど聞かされたことでしょうか。田中正造は「洪水は天災、鉱毒は人災」と言いました。原発事故は人災そのものです。
被害農民たちは鉱毒土を削り、田畑の一角に積み上げ、「毒塚」と呼びました。除染作業で出た大量の高放射能汚染土壌は今日の「毒塚」です。
日清戦争(1894-95)後、農民たちは、鉱毒の発生源である足尾銅山の操業停止と被害民救済を求めて押し出し″ (大挙出京請願)を敢行します。世論にも押されて政府は銅山に鉱毒予防工事を命じます。工事が完了すると、「これで鉱毒問題は解決した」という喧伝がさかんに行われました。冷温停止状態になったとして原発事故収束宣言をした野田首相の発言を思い出します。
「事実を見よ」と正造は言います。いま私たちは「31」と原発事故の現実から、日本の政治社会のあり様を真剣に考えている最中です。谷中村にあった正造が、「谷中を見るも日本を見るも世界を見るも同じに見んと思うのです」と言ったように・・・。(いいだ・すすむ田中正造を現代に活かす会事務局長)

この時も、時の政府は「新日本建造」を繰り返し提唱し、軍拡と増税を推し進めていったのだ。なんだか今とよく似ていませんか。

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