2012年7月30日月曜日

小説を書くということ(野呂邦暢)

小説家が小説をなぜかくのかという問にこのようなわかり易い言い方で、説明する作家はあまりいない。
私の場合、小説を書くということはどこかこの復元作業に似ているところがある。
「お前はなぜ小説を書くのか」という問いにはなかなかおいそれと即答できかねるものだ。自明のことのように思ってはいても他人にわかるように説明するのはむずかしい。何か心の奥深い所にひそむ力に動かされて書いているとしかいいようがない。暗黒の領域に属するその力は私に何を書かせようとしているのだろうか。
いくつかの作品を書くことによって私は少しずつ自分の目ざすものを明るみに出したと思う。きれぎれの断片を寄せ集めて過去のある時間を再構成してみること。たとえば私が失った町とそこですごした時間である。爆心地周辺の公園と住宅街を作品の中によみがえらせてみたい。死んだ隣人と級友たちがその町を歩くことになるだろう。
八月九日、疎開地の諫早で私は長崎の方角にまばゆい光がひらめくのを見た。やがて空が暗くなり血を流したような夕焼けがひろがった。夜に入っても長崎の空は明るかった。昭和十年前後に生まれた者はこうして少年時代の入り口で終末的世界とでもいうようなこの世界の破局を目撃したことになる。
私と同じ世代の作家たちは大なり小なり敗戦を魂のもっとも柔らかい部分に刻印していると思う。日常を措いても、その世界の小暗い片すみには飢えの記憶と硝煙のにおいが存在するはずだ。彼らは常に敗戦体験というフィルターを通してしか世界を見ない。ものを書くということは程度の差こそあれすべて過去の復元である。文章によって経験を再確認することだといいかえられるようである。その結果はっきりするのは、自分がどのような世界に位置しているかということだ。こうして過去のある時間を再現しながら現実には今の世界を生きていることになる。
地上から消えた私の故郷も記憶の中には鮮明に生きている。芸術とは記憶だ、と英国のある詩人が語っている。なんであれ絶ちがたい愛着というもののない所に小説が成立するはずはない。愛着とは私についていえば私の失ったもの全部ということになる。町、少年時代、家庭、友人たち。生きるということはこれらのものを絶えず失いつづけることのように思われてならない。
私の親父も長崎の生まれである。今、自分の失った親父との記憶を呼び戻したいを切に思う。これも年のなせる業かもしれない。

2012年7月25日水曜日

野呂邦暢

今、山梨では、地元出身で芥川賞を取った女性の本が話題となっている。芥川賞作家で「野呂邦暢」(のろくにのぶ)を知っている人は、少ないであろう。1980年に40才で急逝した作家である。ほのぼのとした随筆で有名だ。その一つを紹介しよう。
貸借
私は友人の家から手ぶらで戻った。
どうしても「あの雑誌を返してくれ」といえなかった。せんだって遊びに来た彼が、肩のこらない雑誌を貸してくれといって、私の書斎から持ち去った二冊の雑誌である。
「映画の友」の一九六〇年二月号と三月号。これは十数年前に廃刊になった。いま、古本屋にべらぼうな値段で出ている。「なんだ、映画雑誌か」というなかれ。
あの頃の「映画の友」は、充分に大人の鑑賞にたえる雑誌であった。グラビアページの紙質がよくて、写真が鮮明だった。今のは、まあいわないでおこう。「映画の友」の編集長は当時、淀川長治氏であったと記憶している。
一度はあきらめようかと思ったのだが、その二冊はめったに入手できないしろものである。古本屋でさがしてみたけれども、この号だけ見あたらない。
で、私はふたたび勇気をふるって友人宅へ出かけて、それとなく貸した雑誌のことをほのめかすのだが、友人にはてんで通じない。困ったことに私は「先日、おまえさんが借りてった雑誌を返してもらいたい」といい出せないのだ。まるで巨額の借金を申しこむような心境になる。彼の本棚にあれば、「これ、ちょっと要るから」とさりげなく抜きとろうと考えて、本棚を点検してみた。影も形もない。ボナールの「友情論」というのが目に入った。
借りた本を返してくれるのも友情のうちではないかしらん。友人は「このごろ何か面白い本があったかね。読んだらおれに貸してくれ」などと涼しい顔をしてのたまう。「それにしても、本は高くなったなあ。おれみたいな本好きは弱ってしまう。せいぜい、お前さんから借りて読むとするか」
どうぞ、ご勝手に。
私はとうとう雑誌のことを切り出せずに友人の書斎から出た。玄関のわきに古新聞が紐でたばねられて積んであった。「朝日ジャーナル」や「現代」もまざっていた。屑屋に払い下げるのだろう。
「リヤカー一台分でちり紙一束にしかならないよ」と友人はいった。見覚えのある表紙が私の目をとらえた。私が貸した雑誌は「エコノミスト」といっしょにくくってあった。「おや、それは要るのかい」私が抜きとった雑誌の埃を叩いていると、友人はけげんそうにたずねた。
同じようなことを経験したひとは多いと思う。人それぞれ、大切にしているものは違うということをほのぼのとした文章で表現している。

2012年7月23日月曜日

フランクル「夜と霧と」とヒトラー

日経の一面の下欄の「春秋」に「夜と霧」が紹介されていた。日経に載っているのにびっくりした。フランクルの「夜と霧」は旧版と新版は訳者が違う。新版の池田香代子氏の訳が読みやすい。旧藩の霜山氏の訳は少々難解である。以下、日経の文章である。

人々は貨車に詰め込まれ、アウシュビッツに送られた。その耳に鋭い汽笛が薄気味悪く響く。「大きな災厄に向ってひかれていく人間の群れの化身として、不幸を感づいて救いの叫びをあげているかのようであった」。フランクル「夜と霧」の1節である(霜山徳爾訳)
収容所に着くや、ユダヤ人らは2組に分けられた。ナチスの親衛隊将校が右を指せばガス室へ、左を指せば強制労働へ。が、それ以前に、列車が着いたときには常におびただしい男女が息絶えていた。そんな貨車に人々を乗せる役割を果たしたとされる97歳の最重要戦犯が先日、ハンガリーの首都ブダペストで拘束された。
スロバキア東部の町で警察幹部だった1944年春、ユダヤ人l万5700人をアウシュビッツに送るのに協力したというのが、この男の容疑だ。戦後、本人不在で死刑を宣告されながらもカナダに逃走するなどして行方をくらましていたという。それでもついに悪運は尽きたというべきか、長い長い潜伏生活は終わった。
「夜と霧」とは、ヒトラーが出した特別命令の呼び名だ。夜陰に紛れて市民を捕縛し、霧のかなたへとその存在を消し去る・・。少なくとも600万人以上が犠牲になったといわれるホロコーストはこの名のもとに遂行された。人類の犯した極限の罪に関わった者への追及は、現代史の霧を晴らすあくなき営為でもあろう。2012・7・21日経(春秋)


フランクル「夜と霧」、ヒトラー、ホロコーストと関連付けて覚えておいて欲しい。

2012年7月20日金曜日

メディアの偏向

民医連医療8月号の「メディアへの眼」の記事の一部を紹介する。

あらためてテレビや新聞の本質を問う
国際政治学者畑田重夫
映画監督新藤兼人さんが100歳で亡くなりました。ついさきごろ、筆者は同監督の最新作「一枚のハガキ」を鑑賞したばかりでした。
追悼放映もしないテレビ
この10月で満101歳になる医師の日野原重明さんや、96歳にしていまなお元気に反核平和の講演などで大活躍の肥田舜太郎さんらと並んで新藤監督も「元気で活躍中の高齢者」の1人として社会的にも注目され、尊敬もされていたところでした。
去る6月3日に東京・港区の増上寺で新藤さんの告別式が営まれ、俳優や映画関係者約400人が参列して別れを惜しみました。文化勲章の受賞者でもある大監督新藤さんの訃報だけに、普通ならテレビで過去の代表作の「追悼放映」をするのが当然のはずです。しかし、BSやCSでの放送はあるものの、地上波では1本の映画も放映予定はありません。
関係筋の話では、新藤監督が生涯を通して独立プロで映画を作り続けたことが影響しているのだそうです。筆者もそうに違いないと思いますが、ただそれだけではないと考えます。映画「一枚のハガキ」も反戦映画でしたが、「原爆の子」「第五福竜丸」など、新藤さんの作品のなかには反戦や反核をテーマにした映画が多いことがテレビ局が同監督を敬遠する原因になっているにちがいありません。
そんなことを考えているとき、ふと眼についたのが「東京スポーツ」紙(6月5日付)に掲載されていたある映画関係者の次のような談話でした。「最近の大手映画会社が作る作品は、テレビ局がスポンサーとなり資金を出すケースが多い。テレビにとっては東京電力をはじめ電力会社はいまだに大スポンサー。“反核”を掲げる新藤監督は“反原子力”“反原発”の立場だから協力できないんですよ。特に、今は大飯原発の再稼働について揺れに揺れている時期ですからね」。
NHKと東電との関係
ここで想起されるのがNHKと東電との深い関係です。世論の厳しい批判を浴びて兼務することだけはやめたものの、NHKの数土文夫経営委員長が、このほど東京電力の社外取締役になったことも、電力会社とテレビとの深い関係を示す好例です。
核兵器廃絶は「20世紀の未完の大業」であり、人類の悲願の1つとして21世紀の今日にひきつがれている重大な課題ですが、戦後日本で国策として推進されてきた原発も、放射能被害を及ぼす危険性をはらんでいる点では核兵器と変わりありません。昨年の「3・11」の直後のテレビに出演していた学者・研究者たちが、ひとしく「直ちに人体に影響はありません」とロをそろえて言っていたことや、内部被曝には一言もふれなかったことを思い出していただけるかと思いますが、あれこそ「原発利益共同体」(原子カムラ)の実体をみごとに反映していたわけです。「政・財・官・学・報」の一体化が日本の政治と社会を反国民的な方向へゆがめている元凶であることが今回の新藤監督の作品のとりあっかい方によってはっきりと裏づけられたといえましょう。
このように、メディアの偏向と、又、影響力は際立っている。私達も、もっともっとメディアを注視し、メディアを使いこなす工夫が必要である。例えば、「原発」へのパブリックコメンを求められたら、どんどんコメントしていくことが重要である。

2012年7月17日火曜日

社内英語化

 ブック・オフに行った。そこで105円の香山リカ氏の「しがみつかない生き方」という本を購入した。その中で、なるほどと思った箇所を紹介したい。

「私が私が」で人も企業も病んでいく
私は近年、企業などで働く人のメンタルヘルスの問題に興味を持ち、企業に選任されて活動する産業医の研修会、研究会などに顔を出すようにしている。そこで、ある大企業で月に2回、働く人や管理職の相談に応じているという産業医が、そっと教えてくれた。
「私の行っている企業は2000年以降、成果主義を取り入れるのと同時に、国際競争に勝てるように、とすべての会議を英語にしたんですよ。会議では、自分の企画がいかにすぐれているかをアピールしたり自らの人脈をスライドで誇らしげに見せたりする人が続出して、さながら映画に出てくるアメリカの大企業みたいな雰囲気になったそうです。
ところがね、その″アメリカ化″から2年くらいたってから、私の仕事が激増してきたんですよ。つまり、うつ病などで休職する人が相次いだんです。会社全体としても、威勢のよい人、鼻持ちならない人が増えた割には、業績も上がらなくなったって・・・。
結局、英語の会議はやめ、成果主義そのものに対しても見直しが行われてるんだよね。それにそもそも、自分をアピールしようにもこの不況でみんな成績が下がり、自慢どころじゃなくなったんだけど」
つまり、「私はすごい」「実はセレブなんです」と半ば強制的に自分を誇大広告的にまわりに見せるような仕組みを取り入れたところ、みんな疲弊し部局の協調性もなくなり、個人のレベルでも企業全体としても、マイナスの効果しか得られなかった、ということだ。
2009年6月に発表された企業で働くいわゆる産業カウンセラーへの調査結果でも、実に70.6%のカウンセラーが「メンタルヘルス不調者が増加した」と回答。また、「モチベーションの低下」についても66.9%が、「職場の人間関係や雰囲気の悪化」は約半数が指摘している。
おそらくこれらの企業でも、「大切なのは競争力だ!と他企業間でもあるいは企業内でも競争をすることが奨励され、「蹴落とすか、蹴落とされるか」の雰囲気が蔓延しているに違いない。しかし、そうやってポジティブ思考で自分を盛り上げ、競争のフィールドに勇んで出て行った結果がこうなのだ。
誰もが「私ってすごい」と自分に暗示をかけ、「絶対にナンバーワンに」と我先に打って出るのは、「人の道に外れている」など道徳的に正しくないばかりではない。どうやら、経済的、経営的な観点から見ても、これが企業や社会を成長させるものではないらしい、ということがわかりつつある。「情けは人のためならず」。こんな言い古されたことわざの意味と重みを、もう一度考えるときが来たのではないだろうか。
今、社内「英語化」を推進している企業が増えてきている。私は、この方向に疑問を持っている。この本を読んで、やはりと思った。いくら企業のグローバル化への対応をしても、日本語をしっかり話せない人間が、他国の人から信頼されることはないであろう。

2012年7月13日金曜日

三上満

隔月刊の「社会保障」のページ裏の「歳時記」の文章はいい話が載っている。今回は教育学者の「三上満」さんの文章である。以下、紹介する。

今年は、石川啄木没後100年の年に当たる。私が23歳から40歳まで18年も勤めていた中学校は、啄木終焉の地のすぐ近くにあった。そのこともあって、啄木は何かと私の授業の教材になった。


いじわるの大工の子ども呼び出され
いくさに出でしが生きてかへらず


こんな歌も日露戦争の授業の教材になったし

しんとして幅広さ街の( )の夜の
とうもろこしの焼くる匂いよ


といった歌は地理の気候学習の教材になり、( )の中に入る季節を考えさせたりした。(答えは秋)
啄木といえば忘れられないことがある。ある時のテストで、歴史上の人物の名を答える問題で、正解が「石川啄木」だった。ところが間違えて「石川五エ門」と書いてきた子がいた。その子が、都知事選の時の私への応援で語ってくれた。(1999年都知事選)
「満さんは、私の答えを×にしなかった。丁寧に五エ門を消し、石川だけ残して、そこに半丸を付けてくれ、点数も半分くれた。そのことを一番よく覚えている」
教育とは、子どもの中に埋もれ、隠れている小さな“よさ”を見つけ出し、光を当ててやる仕事である。教育の醍醐味は、「いいとこ探し」であって「あら探し」ではない。
橋下市長(前知事)が、大阪でやろうとしている“教育改革”とは、いったい何物であろうか。知事の方針に従わない学校、教職員への徹底した監視と「あら探し」である。そのあら探しは、ついに「君が代」を歌っているかどうかを調べる“口元検査”にまで及んだ。
しかし、どんなに統制がのしかかかろうと、子どもとじかに向き合い、子どもの“いいところ”を見つけ励ますのは教師たちだ。大阪の教師たちは、この原点を決して失いはしないだろう。

三上さんは、大阪で行われている「教育改革」とはなにか、「教育はあら探しではない」と言っている。まさにその通りである。橋本徹のパフォーマンスに騙されていけない。

2012年7月10日火曜日

新藤兼人

「総研いのちとくらし」 二木立氏の論文の(私の好きな名言・警句)の中で、亡くなった「新藤兼人」日本最高齢の映画監督。(2012年5月29日死去、100歳)氏の言葉が紹介されている。
「泣いたりなんかしちゃいけない。前を向いて歩くと、つぶてが飛んでくるけど、それでも顔を上げていくんだ」(読売新聞」2012年5月31日朝刊)
遺作となった「一枚のハガキ」の公開を控えた2011年4月のインタビューで、力を込めてこう語ったと紹介、「生きている限り好きなことをやり抜きたい。老人は決して枯れた存在ではない」(「読売新聞」2012年5月31日夕刊)。
「酒は飲まない。ムダだから。あまり受けつけないたちだし、酔っぱらって時間を潰すのはつまらない。第一、僕は酔っぱらってものを言いたくない。酔いという鎧を着てものを言うのは正直じゃないと思う。要するに、シラフでものを言いたいんです」、
 「死んだら灰になるだけです。死ぬときの安定感というのは、生き抜いたなという安心感じゃないですか。だから乙羽[信子さんが亡くなったとき、ほんとにいい死に方だなと思った。最後の仕事をやり終えて死んだのですからね」(『公研』2012年6月号「編集後記」。監督85歳のときの同誌インタビュー「私の生き方」での発言と紹介)。

酔っ払って、時間を潰すのはつまらない。酔っ払ってものを言いたくない。という言葉は耳が痛い。

2012年7月2日月曜日

ソーシャルメディアと社会運動

「原発再稼動反対、原発いらない、いますぐ廃炉を」をインターネット上で呼びかけ、大きな行動となっている。それに関連して日経で、興味ある文章が載っていたので、紹介する。
建設的な智恵を
たとえば大飯原発の再稼働を決めた政府・官庁に対してテロをあおるようなツイートが流れ、「炎上」を招いたこともあった。ソーシャルメディアと連動した社会運動は匿名性と移動性の高さが特徴だが、匿名性に隠れて時に粗暴になったり、言いっぱなし、やりっぱなしの無責任な言動もありえよう。
そうして自滅への道を辿らず、デモは建設的にして批評的な社会運動であり続けられるか・・・その問いは20世紀初頭の二人の社会心理学者の間の論争を想起させる。ル・ボンは特定の場所に集まって声や身振りで情報交換する群衆を暗示にかかりやすく、衝動的で非合層な存在とみなした(『群衆心理』講談社学術文庫・93年)。G・タルドはメディアによって情報を共有する理性的な公衆の登場に期待した(『世論と群集』未来社・64年)。デモは様変わりしたが問題の本質は変わらない。
つまり人間は集団となった時に、力を合わせて自分たちの未来を良きものに変えるだけの智恵を備えているか、それが常に問われ続けているのだ。
確かに、これだけ多くの人が、デモという形で集まることは大きな力となりうる。しかし、これからを変える知恵を出すには、しっかりとした組織が必要であることも、事実である。