2013年2月28日木曜日

二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター


 「二木立の医療経済・政策ニューズレター」の最後に「私の好きな名言・警句」の紹介がある。その中なら二つ紹介したい。 
湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長)
人は誰でも、自分の生活実感に基づいて社会を見ている。それを超えてもらうためには『共感の技法』が必要だ。押しつけがましく説教しても、相手は逃げるだけだ。選挙にしろ、社会保障にしろ、訴える核となる部分は大事にしつつも、さまざまな背景や価値観を抱えた多様な人々が、自身の生活実感のリアリティーと結びつけて共感しやすいように、多面的な呼びかけをネットワーク型で構築する必要がある(「毎日新聞」20121221日朝刊「投票を促すことの難しさ」)

原昌平(読売新聞大阪本社編集委員)
強いことには害がある。もっと『ゆるさ』を追求した方がいい(中略)/長い間、社会的な運動にかかわる人々は、力強さを重視してきた。正しいことを強く訴えれば、人はついてくる、賛同者が増えるという考えに立っていた。(中略)/だが、時代は変わっている。そういう運動や組織のスタイルを見直さなければ、対応できない。/強いアピールを耳にすると、怖さを感じて引いてしまう人は多い。(中略)/社会の多数を占める「普通の人たち」の意識と行動を変えていくには、『ゆるさ』が必要だと思う。ゆるさとは、寛容である(「京都府保険医新聞」115日号、「記者の視点21 ゆるさの効用」)

二木コメン-お二人の主張は直接的には「社会的な運動」を対象にしていますが、研究者と教育者、さらには管理者にとっても重要な視点と思いました。4月から学長に就任することを日常的に意識しはじめたせいか、最近、教育と教育者のあり方についての以下の簡潔な名言に惹かれました。
私ももっとと思う。正しいことをただ説教するだけでは、人は動かない。同じことを言っても、人によっては、全く反対の影響を与えることがしばしばあるのが、人間の世界である。

2013年2月26日火曜日

3・11 診療内科医の奮闘


 桑山紀彦氏は、心療内科医になって24年、その間多くのカウンセリングをし、国際協力ボランティアとして災害時の緊急医療支援をしてきた人である。「救命」(東日本大震災、医師たちの奮闘)に紹介されている9人の医師の一人である。NHKのテレビで紹介されていた。一部紹介する。

 もちろん僕も医者として、象牙の塔を目指したこともあるし、大学医師という肩書きに憧れたこともあります。でも、大学にはじかれ、学会にはじかれ、自分にはそういう世界は合わないことに気がついたんです。と同時に、実は僕は人間が大好きなんだということにも気がついた。人間が好きというのは、自分の心の中に潜んでいるコンプレックスをひっくり返したいという思いもあるんです。本当は自分を好きになりたいんですよ。いまはその長い道のりを辿っているところ。究極は自分を好きになりたいんだけど、まずは他人を好きになることを精一杯やりたいと考えているんだと思います。
大震災から二カ月半で、延べ千人の被災地の方々がウチのクリニックに来院されました。その間、何度僕は泣いたことか。そして心療内科医としても少し変わりました。心の傷をケアするのは、薬の処方を考えるのではなく、患者さんたちの物語を一緒に作っていく作業だということを改めて学びました。その物語制作の作業の過程で、今度はこっちが試されるから、リソースを集めることの大切さも知りました。
それは被災地以外の患者さんにも当てはまります。たとえばDVで苦しんでいる人にも、その殴られる棒ってなんだろうか、どのくらい痛いんだろうかとか、角材とバットでその痛みはどれくらい違うのか、あるいは殴られて畳に叩きつけられたときの感触とはどんなものなのかとか、そういう情報が大事なんだと思うようになったんです。
まさに豊かで優しい想像力が求められています。でも、多くの精神科医がそういうことを経験するわけにはいかないし、一人の力では限界があるので、僕は日本社会に期待しているんです。日本社会全体が人の話を聞く風潮にもう1度戻って欲しい。たとえば被災地の方々、あるいは心のケアが必要な人の話を、家族や友人が、いつもより相手に心を差し向けて聞こうという姿勢があれば、浅いところで傷は止められる。「またその話か」とか「また同じ話を繰り返して」と思うんじゃなく、もっと人の話に耳を傾けられる人が増えて欲しい。それが現代社会では少なくなってきているから心の傷が疼いてしまう。日本がもっと優しく人の話を聞く社会になれば、僕らの仕事は無くなってしまうけど、僕はその方が健全だと思っています。
被災地の心のケアやPTSDの予防としては、まだ二合目くらいです。まだ語っていない人の方が多い。「語らないのが美徳」とか「ここが我慢のしどころ」などという日本の精神文化に阻まれている面もあります。寝た子を起こすな、という人もいるけど、寝てないのに寝ている振りをしていることに気がつかないといけない。
まずは語って、それを物語にし、奉納するという手順を踏まないと、この苦難を人生の糧にするのは難しい。僕の心療内科の新患は、四カ月間だけ被災した方々のみに限定させていただいていました。これからも僕は彼らと一緒になって涙を流し続けると思います。被災者の皆さんに最後の一滴の涙を流していただくのが、被災地に病院を構える僕の仕事なんです。
(インタビュー。構成:吉井妙子)
被災者の方々に最後の一滴の涙を流してもらうのが、仕事である。こんなことができる医者はすごいと思う。少なくとも我々にできることは、被災者のことを忘れないで、話を聞くことである。

2013年2月22日金曜日

若き内科医の3・11

 
 3・11からもうすぐ2年が経過する。仏の世界では「三回忌」である。忘れないために、あらためて本を読んでみた。河北新報出版センターの「寄り添い支える」(公立志津川病院―若き内科医の3・11)である。著者は2011421日に発表された米国タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」(2011年度)菅野武志医師である。あとがきの一部を紹介したい。

今回の東日本大震災を経て、私自身たくさんのことを知った。私がこの本を通して残したかったものは、まさに私が味わった体験と思いである。震災で失われたもののうち、建物やインフラなどは、時間は掛かるかもしれないが必ず戻るし、そのために多くの人が力を出し合っている。また、科学や技術の分野においてもさまざまな角度から今回の出来事を検証し、次に備える動きが出てきている。私自身の医学研究もそうだが、いずれはそれらも必ずや実を結び次の災害への備えとなると思う。
けれど、目の前に津波が押し寄せ、まさに死を覚悟したときやその後の壊滅的な状況の中で「そこにいた人が何を思い、どう動いたか」ということはやはり経験した人間が記録しなくてはならないことなのだと思う。先人たちが「津波てんでんこ」の教えをわれわれに伝えたように、私たちは次の世代に苦難との闘いの記録を残さなくてはいけない。河北新報出版センターの皆さんにはこの本の執筆について声を掛けていただき、本当に感謝している。
石巻赤十字病院で、災害医療コーディネーターとして陣頭指揮を執り続けた石井正医師とは、私がヘリコプターで放出されたとき以外にも、いくつかの機会でお会いしたり連絡を取り合ったりしているが、その中で石井医師も以下のように述べている。
「今回の震災におけるわれわれの体験は、広く共有すべきです。それが今後起きる災害の減災につながるはずですし、ご支援いただいた方や、わが国に対する僕らの義務ではないでしょうか」
これは、震災後から急に注目され、講演や発表、執筆など、医師としての仕事以外の慣れない生活に右往左往していた私に活を入れてもらったときの言葉だ。 
石井医師の強靭な精神力、一貫して命のために向き合う誠実さは同じ医師から見ても簡単にできることでなく、それをずっと継続していることはまさに尊敬に値する。そんな石井医師であっても、もちろん一人きりで頑張り続けたわけではなく、多くの協力を得て難局を乗り切って来られた。ましてや私は、日々不安と葛藤の繰り返しであった。
けれど、 私が自分の抱える弱きや不安を、周りの人々の力を借り決断し乗り越えられたことが、多くの皆さんの共感を得たのではないかとも思う。押し寄せる津波のときには、支えるべき患者がいることが逆に私の支えとなった。絶望の淵でも、明日への希望を信じて必死にもがくことで未来が開けること。弱い人間でも大切なものを見据えて、みんなで手に手を取り合えば大きな希望の力となること。これはこの本の中で繰り返し書いた、次の世代へ伝えたい体験である。
苦難のとき、ピンチのときには、必ずそこに大きなチャンスがある。日本全体が、閉塞感と不安感に覆われて久しいが、この東日本大震災の経験を、私たちが今までよりもよりよい社会をめざすチャンスに変えなくてはならない。
予算がない、人がないという問題はあろうが、第二次世界大戦敗戦直後の状況に比べればずっとましなスタートラインではないか。今度は高度成長期のような経済発展を追うことではなく、新しい形でのよりよい社会を考え育む時期なのだと思う。私たち日本人の持つ、支え合うことで力を発揮する成熟した精神、そして今回気付かされた絆の力があれば必ず復興を成し遂げられると思う。
東日本大震災ではたくさんの命が理不尽に奪われ、積み上げてきた生活が水泡に帰し、私も本当に悔しい思いを何度もした。そのたびに多くの友に助けられ、何とか乗り越えてきた。この本を読んでくださった皆さんにも感謝し、そして伝えたい。私たちは一人ではないことを・・・・。
201112月 菅野武
それにしても、今の安倍政権の浮かれ方は何だ。円安、株高誘導が今の日本を再生するかのような・・まさにいつか来た道である。震災、原発、沖縄は頭の中になく、アメリカのご機嫌取りだけである。今、あらためて3・11を考えたい。

2013年2月19日火曜日

メディアと総選挙


民医連医療3月号に「選挙制度とメディアに左石された総選挙」と題して国際政治学者畑田重夫が書いている一部を紹介する。

2012年暮れの総選挙の結果は、あらゆる意味で多くの話題や教訓をもたらしましたoまず33カ月前の政権交代以後、国民の期待を裏切り続けた民主党は、公示前の230議席から57議席へと激減するという、みるもあわれな大惨敗を喫しました。自民党は単独で過半数の294議席、連立を組む公明党の31議席を合わせると、参院で否決された議案を衆院で再可決できる3分の2を超える325議席を占めることになりました。日本維新の会も54議席を獲得して衆院で第3位に、比例では第2党になりました。
小選挙区制のマジック
メディアは「自民党圧勝」と大きな見出しで報道していましたが、その実態はどうなのか。自民党が得た294議席のうち237議席は小選挙区によるものです。小選挙区での同党の得票率は43%でしたが、全300小選挙区議席に占める割合、(占有率)79%にもはねあがりました。しかも小選挙区で自民党は前回比94万票も減らしているのです。民意は決して自民党を信頼し、期待して圧倒的な支持をよせたのではありません。
自民党の機関誌「自由民主」の20121225日号によると、安倍総裁自身が記者会見で次のように述べています。「今回の総選挙の勝利は自民党に信任が戻ってきたというのではなく3年間の民主党の間違った政治主導による政治の混乱と停滞に終止符を打つべく国民の判断だったと思う。自民党に対してまだまだ厳しい視線が注がれている。緊張感をもって結果を残していかなければならない」
ここで私たちはもう一度日本国憲法の前文に眼を通してみることが大切だと思います。前文の書き出しは、「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し・・」となっています。今回の選挙は「正当に選挙された」と言えるでしょうか?最高裁も違憲だと判決を下している1票の格差」も是正されないままで実施されたわけですから、小選挙区制ともども「二重の意味」で「正当に選挙された」とはいえないのが今回の総選挙だったと言えると思います。
マスメディアの影響
いまひとつ、今回の総選挙では、マスメディアが民意の正当な反映を妨げる役割を演じたことを忘れてはなりません。マスメディアは、投票日前に、世論調査の結果だとして再三にわたって大きな活字で、「自公圧勝」と報じました。それをやや具体的にみると、自民党と民主党のいわゆる2大政党」と、マスコミが「第3極」とする諸政党のなかの「日本維新の会」や「みんなの党」どまりの報道ばかりでした。つまり、自民、民主、維新の会、みんなの党ばかりが新聞やテレビ等で露出するという構図が日本共産党や社民党の孤立化を促進しました。国民のなかで、共産党や社民党に入れても議席は獲得できないという「常識」が定着したわけです。今回の選挙ほど、メディアによる世論誘導が露骨かつ公然と行われたのは筆者の記憶にもあまり思い当たりません。

投票前の世論調査は明らかに、体制側の投票誘導である。期日前投票の調査も利用せれている面が大きい。まさにメディアを制したものが勝つのである。われわれにとっては厳しいが、メディアも無視できない運動しかないのである。

2013年2月12日火曜日

かんてんぱぱ


新婦人新聞に「会社は、社員を幸せにするためにある」という会社の社長の紹介が載っている。その会社の名前は「かんてんぱぱ」で有名は「伊奈食品工業」である。一部、インタビュー記事を紹介する。

9割近くが人生に不安を抱いている・・新成人へのアンケート結果です。20年間で従業員を100万人減らしながら、内部留保を20兆円も増やしている大企業ほど女性を冷遇し、電機、情報産業を中心に13万人もの首切りを強行しようとしています。「日本でいちばん大切にしたい会社」など、注目の企業のトップから聞きました。
利益は目的じゃない
人間の営みは、人間が幸せになるためにできたはずです。学校をつくるのも、病院をつくるのも、鉄道を敷いたり道路をつくるのも。そんな人間の営みの中でひじょうに大きなウエイトを占める会社組織が、じつは倒産や工場閉鎖による解雇をしてハッピーじゃない人をいっぱいつくっている。
私は、会社の利益は健康な体の「ウンチである」と言うんです。健康な体なら必ず出る。それを目的にしている人はいないでしょう。それと同じことで、会社も利益を目的にしてはいけません。体にいきわたらせなければいけない栄養をケチって、ウンチを多く出そうと言うのがいまの大方の会社経営です。社員に分配したり社会に還元したりすることをやらずに、利益だけだそうとしている。それが間違いだとわからせたいから、私は強烈な言葉で言うんです。
社員と会社のために
若い人の車離れと言われるけど、若い人はほんとうは車が好きですよ。買えないだけ。会社は内部留保をため分配しないから働く人にお金が回っていかない。内部留保で、海外の工場をつくるようなことばかりに興味を持っているからです。なぜそうするかといったら、会社は株主のものだから。限りなく売り上げを大きくして株価をあげ、株主の期待に応えられるからと出て行く。そこが間違っている。会社は株主のためじゃない、社員のためにあるんです。
渋沢栄一は『論語と算盤』という本のなかで、人の道を説き、同時にきちんと経営しなければいけないから、そろばんも大事だよといった。まさしくそうなのです。うちだって、社員500人が定年まで勤めるわけだから、その人たちがちゃんとした家庭を築いて幸せになれるようにしなければいけない。そのためにはちゃんとした利益が出るようにしなければならない。さりとて、人に迷惑をかけるような商売をしたくない。むずかしいしフレッシャーはかかりますけど、だから一生懸命働いて、知恵を出しています。
社員のための会社が、外国にいくわけにはいかんでしょう。だから私どもはここで一生懸命がんばる。そうすることが社員のためにもなり、地域のためにもなる。そうやって一生懸命まじめにやっていれば、みんなが支援してくれる。またその期待に添うようにしないといけないなあとプレッシャーがかかりますが。

塚越寛社長は「社員への一番の裏切りは、会社の倒産、縮小である」と言っている。まさにその通りである。こんな会社があるのだ。

2013年2月7日木曜日

昭和こども新聞


昭和子ども新聞なる本を図書館より借りる。戦後の資料をもとに、この時代に当時の新聞のように編集したものである。結構懐かしい。私が生まれた昭和27519日の記事は以下のようであった。

519日、後楽園球場特設リングでボクシング世界フライ級チャンピオンのダド・マリノに挑戦した白井義男が偉業をなし遂げた。日本人として初めて世界王座を奪取したのだ。
4万の大観衆が見守るなか、ボクシングの世界タイトルマッナが初めて日本でおこなわれた。日本の白井義男とアメリカのダド・マリノはいままでノンタイトルで2回対戦し、11敗という五分の成績。いってみれば、今回が決着戦だ。しかも王座がかかっている。勢いでは若さに勝る白井が有利といわれているが、はたして日本人初の世界チャンピオンは誕生するのか?
日本国民は、だれしもが大いなる期待を胸に抱いて、この試合に注目。後楽園球場に行けなかった人たちは一様にラジオの実況中継に耳を傾けた。
試合は予想以上に白熱したものとなり、7回にはマリノの強烈な左フックを浴びた白井が脳振とうを起こして大ピンチ。しかし白井はこの劣勢を跳ね返し、8回から大攻勢に転じた。キレのある左ジャブや右ストレートが的確にマリノにヒットしていく。結局、両者は15回を戦い抜き、勝敗は判定に。
勝者としてレフリーから手をあげられたのは、白井だった。その名がラジオ・アナウンサーの口から告げられた瞬間、大げさではなく、日本中が大歓声でどよめいた。
日本人がついに世界チャンピオンになったのだ。しかも、アメリカ人を倒して
これはまさに、3年前の古橋広之進の水泳世界新記録と並んで、戦後日本の大
快挙といってもいいだろう。
その後、白井は、115日にマリノとのリターンマッチに判定勝ちして、王座を初防御。ふたたび日本人に勇気と希望を与えてくれた。
今年428日には、日本は68カ月に及んだ占領から開放され、ようやく独立。GHQもいなくなったし、もう、アメリカ人なんてこわくない。これからは日本人が誇りを取り戻す時代だぞ。
でも、科学トレーニングで白井をここまで強くしたコーチのアルビン・カーン博士もアメリカ人なんだよな。やっぱり、アメリカには助けてもらわんと。

私が、この世に誕生した時、日本人初のボクシングの世界チャンピオンの誕生とアメリカからの占領から開放された。しかし、沖縄はそれから60年以上経っても開放されていない。

2013年2月5日火曜日

般若心経


 NHKの「100分で名著」(般若心経)(著者:佐々木閑)をテレビで見た。特に宗教に興味があるわけではないが、「般若心経」は小さい時から身近にあったので、本を購入した。その中の一部を紹介する。
 「日本で一番人気のお経」の新しい見方
多くの人が心に不安を抱えている時代です。震災の後遺症、長引く不況、高止まりのままの失業率、超高齢化の進行・・。様々な理由から精神に不調をきたし、うつや引きこもりになる人もあとを経ちません。そのよぅな状況の中でいわゆる“心のよりどころ”を求める人たちの数も一層増えてきているように思います。そういう流れを受けて、仏教への関心も高まっているのですが、なかでもとりわけ人気の高いのが『般若心経』です。写経する人、音読する人、そして宙でそらんじることのできる人も大勢おられます。
仏教に親しもうと思っても、「坐禅」のような修行はそれなりの場所に行かないとできませんし、正しい指導も必要です。しかし『般若心経』でしたら、数分で読める短いものですから、どこにいても唱えることができますし、毛筆、あるいはペン字のお稽古帳のようなものを使って気軽に写経もできます。しかも、やってみるとこれがなかなかよいのです。思った以上に落ち着きます。精神安定にはかなり効果があると思われますので、多くの人の役に立っていることは間違いありません。
このお経との付き合い方はいろいろですが、メインは音読か写経です。書店に行けばマニュアル本がたくさん売られていますし、いちいちお手本を見ながら書き写さなくても、そのまま上をなぞれるように薄い灰色の字で下書きしてある「写経キット」なども売られています。そんなふうに、わざわざお寺に出かけなくても自宅で気軽に親しめるところも、『般若心経』人気の理由でしょう。
なかには毎朝必ず仏前で読経するとか、毎日一回必ず写経するという方もいらっしゃいます。そうした方たちがよくおっしゃるのは、一心にお経を写していると気持ちが落ち着く、とか、一日一回お経を読むと安心する、といった言葉です。
このようなことをご紹介しますと、中には「そういう人たちはあのややこしい漢文の意味を本当にわかって読んでいるのかしら」「意味も理解せずに読んだり書いたりしても時間の無駄じゃないのか」とおっしゃる方がおられます。確かに一理あります。
しかし、あえて言いますが、それは決して無意味な行為ではありません。というよりも、じつのところそのような姿こそが『般若心経』の本来あるべき用いられ方なのです。
般若心経は呪文であると言われている。それがなぜそんなに人気があるのかを著者は以下5点にまとめている。①簡潔であること②短すぎないこと③全体構成の妙④翻訳の見事さ⑤個人の心を救済する
小さい時、祖父、祖母がなくなると、坊さんが必ず「般若心経」を唱え、唱和させられた。(まか、はんにゃ、はらみったしんぎょう・・・)
このような呪文を(マントラ)と言うのだそうだ。呪文を悪く使った例が「オウム真理教」であろうか。


2013年2月1日金曜日

明らかに究める


 五木寛之の「人間の運命」を読む。五木寛之の本は、どの本もよく売れている。小説ではなく随筆が多い。本の字も大きめで高齢者に優しい。
 最後の「あとがきにかええて」の部分を紹介する。

思うとおりにならないもの、というのが私の人生に対する見方である。そして、そのことをはっきりと認め、目をそらさずに直視することからしか人は行動できないのではないか。
ありのままの現実を、勇気をもってはっきり認めることを、「あきらめる」という。諦める、という言葉を、私は自分流に読みかえて、「明らかに究める」と読んでいる。
どんなに嫌なことでも、不快なことでも、そこから目をそらすわけにはいかない。しっかりと現実をみつめ、そのありのままの姿を見定めることが第一歩なのだ。
運命とは何か、運命は変えることができるのか、という主題は、繰り返し古代から考察されてきた。
私は変えられる、と思いたかった。そう信じて、生きてきたのだ。
しかし、最近、つくづく考えるのだが、自分はひとりでこの世に誕生したのではない。私という個人の上には、両親や、民族や、先祖や、いろんな自分以外の力が働いている。
いま現在の自分の住所や職業を変えることはできる。しかし、過去から引きずったものはどうしようもない。
たとえば私は母親似だが、弟は父親にそっくりだった。顔だちから性格までそうだった。それをもし運命というなら、運命の力は逆らいがたく大きい。そして、それを変えることはできない。
運命に身をまかせる気はない。しかし、運命に逆らうこともできない。
そこでできることは、ありのままの自己の運命を「明らかに究める」ことだけだ。自分の運命をみつめ、その流れをみきわめへそれを受け入れる覚悟をきめることである。
そのことによってのみ、運命にもてあそばれるのではなく、運命の流れとともに生きることが可能になるのではないか。私は、やっといまそんなふうに前向きに運命について感じられるようになってきた。
自分の努力しだいで何でもできる、などと思うのは、人間の倣慢というものである。近代の世界はその倣慢な人間によって支配されてきた。
「人間は考える葦である」とパスカルは言ったが、これまでの解釈とは別な印象を私は受けている。
弱く、はかない存在だが、考えるという行為によって人間は偉大だ、とこれまでは教えられてきた。
しかし最近、パスカルを読みなおして感じるのは、彼のおどろくべき謙虚さである。考えようが考えまいが、その前に人間は風にそよぐ一本の葦のように弱い、はかない存在である、という深い思いがパスカルの言葉の前提なのだ。
私たちが生きている現在は、人間の深く暗い部分に光をあてることが最も重要な時代となりつつあるように思う。
「考える葦」「明らかに極める」の解釈は成る程と思う。