2014年3月11日火曜日

ムラ的民主主義


精神科医の斎藤環氏は毎日新聞への寄稿で安倍政権の危うさを「ムラ的民主主義の危うさ」と出して述べている。
ムラ的民主主義の危うさ
東京電力福島第1原発の事故処理についてはいまだ問題が山積している。第一に、除染や廃炉、汚染水対策が停滞しているという現実。とりわけ汚染水についてはトラブルが続いており、安倍晋三首相が五輪招致演説で述べたような「アンダーコントロール」とはほど遠い。
もちろん原発事故については、他の政権担当者ならばきちんと処理できたとは限らない。しかし、長期的視野に立った場合に、安倍政権は少なからぬ“思想的問題”をはらんでいる。
私が特に懸念するのは、安倍政権が一貫して“前のめり”になっている改憲論議についてである。一昨年に提示された自民党改憲案には、立憲主義の否定になりかねない危うさがある。この改憲案は、安倍首相の思い描くポエジーの反映である。
「自立自助を基本とし、不幸にして誰かが病に倒れれば、村の人たちみんなでこれを助ける。これが日本古来の社会保障であり、日本人のDNAに組み込まれているものです」(安倍晋三「瑞穂の国の資本主義」文芸春秋20131月号)
ここで述べられる「瑞穂の国」とは、いわば理想化されたムラ社会である。改憲案の理念にも、至る所にムラ的価値観がにじんでいる。
民主主義の根幹は、個人の人権に至上の価値を置くことである。その意味で、個人の権利以上に重要なものがあると考えるこの改憲案は、民主主義に反している。
改憲案ではしきりに「公の秩序」が強調される。福祉ではなく秩序、である。しかし、個人の活動を抑圧する「公」は「公」ではない。それは「世間」そのものだ。
世間を構成するのは家族や地域や会社といったムラ的中間集団である。つまり改憲案では、国家や社会といった「公共」以上に、ムラ的な「世間」が重視されているのだ。
こうしたムラ的民主主義は、短期的な地域の復興や景気浮揚においてはそれなりに効果を発揮するだろう。しかし原発の廃炉をはじめとする長期的な原子力政策、あるいは復興の中で疲弊した被災弱者へのサポートについては大いに不安が残る。
ムラ的価値観の問題の一つは、トラブルが起きた場合の責任の所在がうやむやにされやすい点である。ざらに、先般成立した特定秘密保護法のもと、今後の政策決定の過程が不透明化し記録に残されない懸念が加わる。
「あの日」を経てきた私たちが、今度こそ「市民」たりうるのか、依然として「ムラ人」にとどまるのか。ひとまずは改憲に対する意思表示がその試金石となるだろう。
原発推進勢力は、推進力の一番の方法は憲法の改定と考えている。まさに我々の改憲への意思表示が問われている。

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