2014年3月13日木曜日

アイム・ファイン


JAL機内誌「スカイワード」に連載された浅田次郎氏のエッセイ「アイム・ファイン」を読む。誌の歴史小説のファンは多いと思う。私は、歴史小説はちょっと苦手である。その中から少々長いが、一つ紹介する。
闘病生活
バカは風邪をひかないらしい。
私の記憶にないくらい大昔から流布している説であるし、ギャグとしてもさほど面白くないから、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
しかしまずいことに、私は風邪をひかないのである。
まったく、と言えば嘘になるが、いつひいたかなと考えるとそれはたしかずいぶん昔話で、七代目梅幸の藤娘を咳止めの飴をねぶりながら観たときであろうかと思う。何年前のことかよくわからん。ともかくそのとき隣の席で興奮していたおふくろの七回忌もとっくにおえている。
バカは風邪をひかないのなら、十年以上も風邪をひかない私は大バカということになる。そんな蔭口を叩かれるのも癪だから、インフルエンザだのさまざまの風邪だのが流行したこの冬には、つとめて人混みを歩き、無理を押して出勤している風邪っぴきの編集者を選んで打ち合わせなどしたのだが、やっぱり風邪をひかなかった。
健康管理にはてんで無頓着なのである。薬は大嫌い、注射を打つくらいなら死んだほうがマシ、医者の白衣を見ただけで鳥肌が立つ。つまりそれくらい徹底していると、体内に抗体が自然発生して徴菌をやっつけているのではなかろうかと思う。バカかどうかはともかく、原始人的な肉体であることはたしかだ。
年明け早々に突如として発熟し、腹工合までおかしくなったので、内心快哉を叫びつつそこいらの病院に行った。いまだかかりつけの医者がいない五十六歳のオヤジというのも、あんがい珍しかろう。
「いやあ、風邪をひいちゃいましてねえ」
などと、たぶん嬉しそうに私は言った。声には出さなかったがその言葉のあとには、「やっぱりバカじゃなかったんですよ」と続くのである。
医者は私の笑顔と言いぐさがよほど気に食わなかったとみえて、憮然とした。
まず咽を覗きこみ、聴診器を胸に当て、それから腹を触診したのち医師の下した診断は、私を憮然とさせた。
「風邪じゃないですねえ。ウイルス性の大腸炎。何か悪いもの食べました?」
とっさに思い浮かんだのは前日に食べた生ガキである。まちがいないと思ったのだが、憧れの風邪ではなく食あたりというのもくやしいので、原因は黙秘した。
医者は処方箋を書きながら言った。
「まずは絶食です。そのお体ならば二日や三日食べなくたってどうってことないですからね。いいですか、食べちゃだめですよ。水分を摂るだけ。それも水かお茶」
ハイハイと生返事をして診察室を出た。会計をしようとしたところ、保険証はとっくの昔に有効期限が切れていた。使った覚えがないのだから仕方がない。しかし高額の保険料を払いながら自費で勘定をすますのもバカくさいので、電話をして家人を叱りつけ、「おまえのせいだからこれから持ってこい」という時代にそぐわぬオヤジ論理を展開した。しかるに家人はただちにやってきたのであるが、バカなことにその保険証は私のものではなく、自分のものであった。しかもそのてめえの保険証すら、有効期限が切れていた。早い話が家人も十年以上風邪をひいていなかったのである。
こんなバカなことをいつまでやっていても始まらんので、断腸の思いで自費を支払い、バカがバカをバカバカと罵りつつ薬局へと向かった。実はここだけの話だが、私も家人も保険証といえばあの旧時代の、お免状みたいな見開きのものだとばかり思いこんでいたのである。だから私はドーナツ屋や健康ランドのポイントカードと一緒くたに保険証を携帯したままその存在理由などまったく失念しており、家人は家人でその一枚があれば家族全員をカバーするはずだと錯誤して、自分名義の、おまけに期限切れの保険証を届けたのであった。ついでに言ってしまうと、このごろ多くの医院は薬を出さず、近所の薬局が処方するということも知らなかった。その薬代ですら自費で払わねばならなかったのであるから、くやしさもひとしおであった。
こうして私の闘病生活は始まった。
そのお体ならば二日や三日はどうってことないという歯に衣着せぬ医師の言葉は、要するに「この機会にダイエットしなさい」という意味であろう。願ってもない話である。べつにカキにあたらなくたって、二日や三日は断食しようかと考えていた矢先であった。 
発熱、倦怠感、多少の吐き気と腹工合の悪さはあったが、たちまち治る自信があった。たまに飲む薬はものすごく効くのである。虫歯の治療のとき麻酔注射で失神し、歯医者をあわてさせたことだってあるくらいなのだ。
そこで、さっさと薬を飲んで治しちまおうと思ったのであるが、帰宅して説明書を読みながら私は懊悩した。
 吐き気止めの「ナウゼリン」という薬は、朝昼夕の毎食前に一錠、だそうな。下痢止めの「フェロベリン」という薬は、毎食後に二錠、だそうな。
矛盾である。絶食を命ぜられたのに、どうして食前食後なのであろうか。しかも医師は、「いいですか、食べちゃだめですよ」とまで念を押した。勝手に物を食っても、物を食わずに薬を飲んでも大変なことになるのではあるまいかと思うと、苦悩はいや増した。
またしてもここだけの話だが、生まれついて薬に不慣れな私は、「食間に服用」という表示をつい先ごろまで誤解していた。食事と食事の間ではなく食事の最中に飲むものだと考えていたのである。
そんなことはこの際どうでもよい。どうすれば維食中に、食前薬と食後薬を飲むことができるのだ。お茶か水を仮想食とするのか、それともカラのご飯茶碗を食卓に据えて、「いただきます」「ごちそうさま」を言い、薬を飲むためのセレモニーとするべきか大いに悩んだ末、雪深い東北の町で医者をやっている娘に電話をした。いや、電話をしようと思ったのだが、時節がら忙しいと悪いので携帯メールを送った。
返事はなかった。きっとインフルエンザの流行でものすごく忙しいか、さもなくば返事もする気になれぬくらい父を軽蔑しているのであろうと思った。私はめったにメ-ルを打たないが、打つとなったら職業上すこぶる長文になる。このときのメールも原稿用紙に換算すると七枚ぐらいになったと思う。つまり本稿と同じ程度である。
薬局、じゃなかった、結局、私は絶食を選んで薬は飲まなかった。効果は覿面で、二日間の完全断食ののち、私は病の克服とダイエットを同時になしたのであった。
と思いきやへ三日目に健康ランドで計測したところ、なぜか体重はピタ一キロも減ってはいなかったのである。思うにこれは、年末年始に増加した体重が、元に戻ったというだけであるらしい。
何だか損をした気分になり、サウナルームでやけくその汗を淋漓としたたらせながら、ふと疑った。
バカが風邪をひかぬという説は、もしや真理ではあるまいか、と。
文章の中で、薬の部分は面白く書いている。さすが作家である。文中の間違いをひとつ指摘する。「薬局が処方」するではなく、「薬局が調剤」するである。

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