2014年3月26日水曜日

韓国人の日本史観


 「韓国人の日本史観」市塚守著(オリオン舎)という本を読む。読む気になったのは、今日本と韓国の関係がややこしくなっているからである。著者のあとがきを紹介する。
高校を退職して、韓国の大学で日本語を教えて3年半になる。日本で社会科(現在は地歴科と公民科)を教えてきたために、日本語の教科書に、日本の歴史や社会に関する語句が出てくると学生に少し説明してきた。これが、日本社会や歴史に興味がある学生なら、面白いということになろうが、やむなく日本語を選択している(日本語は中国語との選択必修)学生にはつまらない話となる。
学生を見ていると、アニメーションなどの日本の大衆文化に詳しい学生もいれば、ほとんど日本について知識のない学生もいる。また、私が韓国史に関しても少し知っているので質問することもあるのだが、韓国史に関してもあまり詳しい学生はいないようだ。ときには、「先生、独島は韓国領土でしょう」などと挑発する学生もいるのだが、主任教授に独島への言及が禁止されていることもあり、領土問題の話はしない。
2年前に、韓国日語日文学会で「韓流」について発表したことがあった。この学会は、主に日本語と日本文学について研究する学会なのだが、歴史や日本社会に関する分科会もあった。日本語分科会で司会を務めたときは、30人近い参加者があったのに比べ、歴史関係分科会はたったの4人だった。そのとき、独島問題を発表した韓国人研究者に対して、あまりにも一方的ではないかと質問したら、一蹴されてしまった。
領土問題に関する韓国の研究は、日本と違って、自由に論議する問題ではなく、いかに韓国の領土であるかを証明することに主眼が置かれていると思ったものである。あちこち韓国の書物を読み散らかしているうちに、2012年度の高校教育課程の改定で新しくできた「東アジア史」が注目されていることを知った。
それでは「世界史」とともに分析してみようと思い、今回の叙述に「東アジア史」と「世界史」の教科書点検が加わり、さらに韓国の一般の歴史書の分析も加わったために、分量が増えてしまった。
こうして、本書ができたわけであるが、韓国人の日本観で何が一番問題かを考えると二つあるのではないかと思う。ひとつは、韓国の歴史学の水準であり、もうひとつは「民族主義史観」である。「民族主義史観」については、日本人の論者も、私も本書の中で取り上げたので詳述はしないが、これはなかなか解決が困難な課題であって、今後も長く対日関係に影を落とすことだろう。
先日も、韓国人の日本語講師と一杯飲む機会があって、私が韓国人の歴史観について話し始めたところ、「先生、天安の独立記念館にいらっしゃったことはありますか」と尋ねられ、「あれを見たのでは(日本人を)許す気になれませんよ」と畳みかけられた。私も独立記念館に何回か行ったが、独立運動家に対する日本帝国主義の無慈悲な弾圧を想起すると、今、目の前にいる日本人の先祖が韓国人の先祖を虐殺したのであり、このことは、未来永劫にわたって消えることはないのは事実である。パク・ウネ大統領が、三一節のとき、韓国民に向かって「加害者と被害者という歴史的な立場は、千年の歴史が流れても変わらない」と演説したが、日本人としてはただ受け止めざるをえないのである。
しかし、時間が流れるのも事実である。最近、世界の中で韓国の経済的政治的地位が上昇しているために、韓国人の自負心も高まり、いずれ民族主義が変化してくるのではないかと期待している。また、田中明が指摘しているように、韓国の国民意識の形成が韓国併合によって摘みとられてしまったために、現在進行中の課題であることを考えると、民族主義的主張はある程度はやむを得ないことであると考えざるをえない。 
しかし、民族主義史観は、南北統一までも課題になっているので、その変化には、今後もう少し時間がかかるだろう。そして、もう一つの課題が、歴史学の水準の問題である。この水準問題と「民族主義史観」は不可分の関係にあることは、本書を読んで下さった皆様にはお分かりのことであろう。歴史学の水準が高まるということは、自らを客観視できるようになることであるため、「民族主義史観」の欠点も自覚されることになるのである。水準というものは低いと自覚できないものであろう。
「河野談話」を検証すると言っている、安倍首相もこの本を読んでもらいたい。過去に学ばない国に将来はないのである。

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