2014年6月12日木曜日

なぜ哲学するのか?


「なぜ哲学するのか?」という難しいタイトルの本を図書館で借りた。私は、タイトルに哲学という字が入っていると、取りあえず中を見てみる。哲学をどのように捉えているかに興味があるからだ。著者はジャン=フランソワ・リオタールというフランスの思想家である。全般的に難しい本である。以下、わかりやすい部分を一部紹介する。
みなさんは、 1985年頃の青年マルクスによる、『フォイエルバッハ・テーゼ』の最後の第2テーゼをご存じでしょう。それは次のように述べています。「哲学者たちはただ世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。肝腎なのは、世界を変革することである」。私は、このマルクスのテーゼのなかに、哲学の無力さ、無能力、無効性の本当の意味の広がりについて反省するための、よい出発点があると思います。
青年マルクスの断固とした言い方にもかかわらず、そのおかげで私たちはものごとがそれほど単純ではないことを理解できます。マルクスや真のマルクス主義に対立してではなくそれらのおかげで理解できます。すなわち、 一方に語る人間がいて、他方に活動する人間がいるわけではない、ということです。
先週、口に出して言うことで、言われたことは変わると申しあげました。また他方でみなさんは、しようと思っていることを知っていなければ、言いかえれば、しようと思っていることを言わなければ、またそれについて自分や他の人と議論しなければ、活動できないことをご存じです。このことはただちに、哲学と活動の連絡を復活させる二つの理由になります。しかし、言うこととすることのあいだのこの相互浸食をもう少し深めてみましょう。
マルクス主義には、 一見したところ決定的でラディカルな哲学批判があります。この批判のラディカルさは、まさにマルクスが哲学に十分な広がりを与えたことから生じます。彼は哲学を非常に重要なものととらえていて、饒舌のせいで哲学を追放してこと足れりとはしません。
マルクスは、哲学が現実から切り離された反省であること、私たちが先に述べたように、哲学には現実存在から切断された心の現実存在があることを示すだけでなく、この独自の反省には、無意識のうちに現実が住みつき、現実存在や現実の人間の諸問題が住みつき、現実社会の問題構制が住みつくことを示しています。
マルクス主義がイデオロギーと呼ぶもの(そして哲学はイデオロギーの最前列にあります)は、たんなる現実の自発的表象ではありません。それによれば、哲学者や思想家は現実の一隅にいて、ひとりでうわごとを喋っており、結局人類は、歴史の流れのなかで、得るところなくしかし大きな損失もなく、このお喋りな狂人つまり哲学者を運んできたということになります。
いやへマルクスはヘーゲルの教えを軽視していませんでした。マルクスは、虚偽命題の内容はそれ自体で虚偽なのではなく、分離して絶対的なものととらえられたときにはじめて虚偽なのだということ、逆にそれが切り離された元のものと一緒にされたとき、この内容は一つの契機、進行中の真理のl要素としての姿を見せるということを、忘れていませんでした。
哲学は単なる思想ではなく、現実から出発しなくてはならないということである。

 

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