2011年10月14日金曜日

日本の言論

 日経ビジネスオンラインに小田嶋隆という、引きこもり系コラムニストと称している人の「コラム」がある。マニアックなコラムニストで、いつも面白く読んでいる。今回アザラシの「アラちゃん」に関するコラムの最後のところを面白く読んだ。一部であるが、紹介しよう。

 以前、とある朝の情報番組で、おすぎだったかピーコだったかが、司会者にオリンピックの話題を振られたことがある。
 この時、彼女(あるいは彼)は「ごめんなさい。アタシ興味ないのよ」と即座にそう答えて会話を打ち切った。「おお」まったく予想していなかった受け答えだったので、私は意表を突かれた。と、同時に、とても爽やかな気持になった。
 「ああ、この人はやっぱり必要な人なんだな」と、この時私は、このおネエしゃべりのタレントさんがテレビで珍重される理由にはじめて思い至ったのである。自分が興味を持っていない事柄について、思っているとおりに興味がないと言い切れるコメンテーターは、実に、以外なほど稀有な存在なのである。
 要するに、生放送のスタジオというのは、女装した男性や、日本語の達者な外国人や、並外れて太った人間でないと(つまり「異形」の存在でないと)本音が言えない空間なのである。それほど、一般の日本人は、他人と違う見解を持つことを恐れている。      このことはつまり、時に応じておネエ系タレントのような治外法権の存在を配置しておかないと解毒できないほど、スタジオの空気が均一化していることを示している。われわれは、自分でうんざりしながらも、この状況をどうにもできずにいるのだ。ニュース・バリューという考え方からすると、アラちゃんの話題は、しょせんヒマネタに過ぎない。ひとっかけらの緊急性もないし、社会的な意味も無い。
 その意味で、アラちゃんのニュースが、報道番組の放送時間を大量に消費することは、ジャーナリズムの視点から言って、不健全なことであるのかもしれない。しかしながら、ニュースにバリューがあるとするなら、現場の人間は、当然、そのコストやリスクについても考えなければならない。
 であれば、ニュース・コスト的に、アラちゃんの話題は、至極安上がりで、良質なニュースだということになる。ついでに言えば、ニュース・リスクもゼロ。とても平和な商品だ。アザラシのアラちゃんの話題は、今後、ヨーロッパの金融不安やウォール街で続くデモのニュースを吹き飛ばして、ロングランのネタに成長することだろう。まあ、バラバラ殺人の犯行の詳細や有名人の自殺をほじくりかえすよりはマシだと、そう考えて我慢することにしよう。(小田嶋隆)

 山本太郎のような人が「原発反対」を唱えたら、メディアから抹殺されてしまうのが、日本の現実である。なんと嘆かわしいことか。

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