2011年10月26日水曜日

自分らしさ?

東洋経済の「わかりあえない時代の対話力入門から、興味なる内容の抜粋を紹介したい。抜粋にしてはながくいが、あまり省略すると面白くないので・・

作家の石田衣良さんとの対談講演「知層をつくろう新しい生き方・ことばの力」から、興味深い内容を紹介することにしよう。このイベントでは、学生など若者を壇上に迎え、この不確かな時代におけるさまざまな思いを語ってもらった。その思いに石田さんと私が応える形で、独特の対話が進行したのである。
たとえば人間関係について。高校時代は部活に専念していた。そこでは部員が一体となって、何事かを成し遂げるという充実感があり、確かな人間関係があった。だが、大学に入ったら表面的な人間関係ばかりで、ぜんぜん充実した感じがしない。多様化する社会では人間関係が重要だというのに、このままでは不安だー。
確かに人間関係は重要である。だが、ここでいう人間関係とは、「わかりあえない」同士でも、社会における共通の問題を解決する(あるいは共通の目標を達成する)ために協働する、「対話的な人間関係」のことを意味する。
協働するためには、互いの利害を調整しつつ、手を結べるところは結び、結べないところは結ばないまま留保しておく必要がある。要するに、「仲良しの友達関係」とは根本的に異なるということ。
その意味では高校時代の人間関係のほうが、対話的であったといえるだろう。部員が一体となるまでには、さまざまな価値観の衝突や利害の調整があったのではないか。気の合わない部員とも手をつなげるところではつなぐことによって、共通の目標を目指したのではないか。
自分らしさを求めると自分らしくなくなる
ある学生は「自分らしさを追求したい」と言う。自分のやりたいことを自分のやりたいようにやってこそ、自分らしいというのである。
なるほど。言いたいことはよくわかる。だが、まず現実問題として、社会においてやりたいことをやりたいようにできるものか?
たとえば本連載にしても、好き勝手に書いているようでいてさまざまな制約の下で書いている。
テーマは「対話」。何を普くにせよう広い意味で対話に関連づけて書かなければならない。対話について好き勝手に書いてよいわけでもない。本誌の読者を想定しながら番くのである。
「今回は小学生向けに書きました」と言っても、本誌の読者に小学生はいないだろうから決して許されないだろう。
実際のところ、制約があったほうが自分を自分らしく表現しやすい場合が多い。たとえば本連載にしても、期限や分量の制約もなく好きなことを好きなように書いてもよいということになったら、たぶん私は何も書けないだろう。1回か2回なら何とかなるかもしれないが、毎週はとても無理である。
制約は多様な意見を確保するうえでも重要である。たとえば、「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデル教授の有名な課題「嵐の海で定員10名の救命ボートに11人目が乗り込もうとしたら、どうするか」について考えてみることにしよう。
この課題について、単純に「あなただったらどうする?」と質問すれば、何の制約もないまま意見を求めることになる。だが、このように質問して、本当に多様な意見が出てくるか?
たとえば、あなたが「自分が助かるためなら、他人をすべて犠牲にしても構わない」と思っていたとしても、それを実際に口にできるか。意見と人格は切り離して考えるべきだというが、それはあくまでも理想。人格を疑われるような意見を言えば、やはり人格を疑われてしまうのである。
かくして、意見を自粛することとなり、結果として多様な意見は確保できなくなるのである。
ここで質問に制約を課してみる。「『弱肉強食』という信念の持ち主だとしたら、どのような行動を取るだろうか?」このように問われれば信念が設定されるために考えやすくもなり、自分の人格から切り離されるために答えやすくもなる。そのほか、たとえば次のような制約を課した質問が可能だろう。
「『他者の命を絶対に奪ってはならない』という信念だとしたら?」「『一人でも多くの人の命を助けるべきだ』という信念だとしたら?」
自由に意見を述べるよりも、このような制約の下で考えることを出発点にしたほうが、結果として多様な意見が確保できるのである。
変化を生むのは安定かそれとも不安定か?
石田さんによると、最近は歴史小説を書く作家が増える一方で、近未来小説を書く作家はほとんどいなくなってしまったという。読者が歴史小説に求めるものは日本古来の美学。これを保守化傾向の表れと見るべきか。また、近未来小説を書く作家がほとんどいないというのは、未来に対する希望がないということなのか。
ある学生が次のように言った。「若者が未来を作っていかなければならない、世の中を変えていかなければならないというが、この先行きの見えない状況で、何をしろというのか。自分のことで精いっぱいで、世の中のことなんて考えていられない。生活の安定が保障されて、初めて世の中を変えることができるのではないだろうか」
なるほど、一理ある見解である。しかし、生活が安定すると、それが乱されることをおそれて、社会を変えていこうという意欲がそがれる傾向がある。失うものの少ない不安定な状況こそ、大きな変化を起こすチャンスなのではないか。かつて大きな変革ほど、失うものの少ない土地で起こったように。
先行きの見えない状況において、人々の発想は萎縮しがちである。萎縮した発想を自由に放任しても、ますます萎縮するだけ。そこから創造的発想は生まれない。創造的発想を生み出すには、むしろ制約の下で思考するような、対話的な仕掛けが必要なのである。

「自分らしさを求めると自分らしくなくなる」という言葉は至言である。私は「自分らしく」という言葉が大嫌いである。こんなところでは自分らしい仕事ができない。薬剤師としての活動ができない。とい言って去って行った人を、多く見てきた。困難な中ほどいい仕事ができると私は考えている。まさに創造的発想を生み出すには、制約があったほうがいいのである。

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