2011年10月4日火曜日

顔を持たないシステム

精神科医の斉藤環氏は毎日新聞のコラムで「放射線物質とデモ」というタイトルで以下のように述べている。概略を紹介しよう。

「文部科学省及び群馬県による航空機モニタリング」の結果が、927日に発表となった。広域の放射性物質による影響や避難区域等における線量評価や放射性物質の蓄積状況の評価のためになされた調査である。この結果を見る限り、放射性物質による汚染の広がりは、予想以上に深刻に思える。茨城県南部や千葉県北西部はもとより、群馬県や栃木県にも高い蓄積量を示す地域(ホットスポット)があるのがわかる。
しかし汚染地図を見ると、福島県から遠く離れた群馬県にすらチェルノブイリ事故の際の基準でいえば「放射線管理区域」(1平方㍍当たり37000ベクレル)に該当する場所があり、あらためて事故の影響のはかり知れなさに愕然とする。加えて東京都に関してはまだ調査結果が公表されておらず、さらに汚染地域が広がることも懸念される。
年間100㍉シーベルト以下の低線量被曝による放射線被害は、確率的であるとされる。汚染地域内でも線量のむらは大きいし、体内に取り込まれて内部被曝が生じた場合でも、年齢や性差によって影響は異なってくる。
それゆえ、影響の大きさを事前に予測する手がかりはほとんどない。いや、実際に障害が生じた場合ですら、内部被曝との因果関係を証明することはきわめて困難だ。なにしろチェルノブイリ原発事故についてすら、健康への影響についてはいまだ一致した見解が得られていないのだから。
原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)2008年の報告で、6000例を超える小児の甲状腺がんは原発事故と関係があるとしつつも、他のがんについては、そうした関連性を示すエビデンス(根拠)はないとしている。
しかし、もはやエビデンスを待つ段階ではない。東京電力による「想定外」、ないし「人災ではない」といった言い訳″ によって決定的となったのは、絶対に無事故の原発が原理的にありえないという事実だ。だとすれば原子力発電所は、ただ存在するだけで私達の生を確率によって汚染するという原罪を帯びることになる。
もちろんその電力を求め消費したのは私たちだ。しかし性急に自己責任を問う前に、考えておきたいことがある。
システム的な悪。原発事故はその最悪の象徴である。私たちがその存在を求め、依存し、あるいは依存している事実すら忘れていた「電力システム」のもたらした「悪」。このシステムには「顔」がない。それは神のように遍在しながら同時に私たちの分身でもある。ここで生じた悪はただちに私たち全員を共犯関係に巻き込み、全員が共犯であるがゆえに、ただちに「責任」はうやむやになる。
そう、放射線を浴びるまでもない。システムはすでに私たちを匿名化し、とうの昔に確率的存在に変えてしまっていたのだ。
顔を持たないシステムに対抗すること。それは私たちが「顔」や「名前」を持つ存在として「声」を上げることを意味するだろう。すでに都内では数万人規模の反原発デモが繰り返されている。この種の運動が久しくみられなかった「楽園」において、これは喜ばしい兆候だ。支援と擁護と参加をもって、その歴史的意義への肯定に代えたい。

彼のコメントは哲学的であるがゆえに、わかりにくいと思われるが意外と解りやすい。このような計り知れない被害、わかりにくいシステムに対していくには具体的な行動をつくって、可視化させることが重要であると言っていることに共感する。

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