2011年10月19日水曜日

”いま”という時のエクスタシー

辻邦生という作家であり、詩人であり、随筆家を知っている人は少ない。彼の本で「美しい夏の行方」―イタリア、シチリアの旅―を読んだ。以下一部であるが、地中海の景色が浮かんでくるような、文章ではないか。知らない名前や難しい言葉は無視して読んでみて欲しい。

ジャン・グルニエが言うように、なぜ彼らはバールに坐り、ほとんど何もしないで、あのような生の充実感を持つことができるのだろうか。彼らは、お話にならないくらい貧乏だ。だが、今日暮せる以上のものは絶対に稼ごうとはしない。彼らは(いま)という時のなかに、まるで象嵌(ぞうがん)されたように、はまりこみ、明日のことなど考えないのだ。
現代人は多かれ少なかれ時間に鞭打たれ、分秒刻みに時間に酷使されている。過去はぼくらの上に拘束服のようにのしかかってくるし、未来は、希望より、不安定要素を多く含むものとして、ぼくらの前に控えている。過去を忘れ、未来も問題にせず、(いま)という時の中にたっぷり生きることは、現代では、やはり稀な例だろう。それなら地中海の港に生きる男たちは、どうして堂々たる古代人のように現代のなかでかくもたっぷりと時を享受することができるのだろう。グルニエの言い分はこうだ。
「彼らは情熱にとらえられた人間だと考えられているし、なるほどそれがほんとうであろう。だが、どんな楽しみにめぐまれて情熱にとらえられるのか太陽、恋、海、賭博によってである。それらの楽しみだけは、何者も彼らからうばうことができない」ぼくらは地中海を見ているとき、不意に幸福を覚えるのは、ぼくらもまた、この輝く太陽と、葡萄酒の酔心地と、青く揺れる海だけで、人生で最良のものを与えられたような気持ちになるからではないか。
すくなくともぼくが地中海で味わう幸福は、この(地上にいるだけで最高)という気分から生れている。グルニエが言うようにここでは「肉体が知性のなかに浸っている」のだ。東京にいるとき、多忙な生活のなかで括弧に入れられていた肉体が、地中海にくると、ある確実な存在感となって、復活してくる。ぼくらは潮風の吹き通る、素朴な、洗濯物のぶらさがった狭い路地を歩きながら、この肉体が幸福を奏でる楽器であることを直覚する。よく眠ること、よく食べること、よく愛すること、よく喋ること、よく歩くこと、よく見ることーこうしたことは、すべて確実に幸福の条件なのだ。それがあれば、太陽と恋と海と冒険が、ぼくらが喪っていた(いま)を、奇蹟のように取戻してくれる。
東京でも。パリでも誰が地中海の男たちのように、何の目的もなく、ただ波止場の端から端まで、あれだけの充実した生命感をもって歩いてゆくことができるだろうか。
だが、ぼくが地中海に行きたいと思うとき、ぼくの胸の底にあるのは、古代史のドラマでもなければ、文明の諸成果への憧憬でもない。そうではなくて、素朴な路地のあいだに見える青い海から突然啓示のように現われるこの至福感に、ただの一瞬でもいいから酔いたいためなのだ。
その時、ぼくほ、太陽と恋と海と旅があれば、もう何も要らない、という強い気持ちに貫かれる。ぼくの肉体は突然楽器のように幸福の歌を奏でだす。そしてたまに、早暁、まだ海が暗いうちに起きて、浜に出て、夜が明けてゆくのを見ているとき、ぼくは、ばら色に染る海の上に神々の過ぎてゆく姿を眼にするのである。

私も一度地中海へ行ってみたくなった。

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