2011年10月31日月曜日

心の奥行の変化

 以前にも、紹介したが、神谷美恵子氏の「生きがいについて」という本から、紹介する。生きがいという言葉を真正面から言うと、少々照れくさいが、今の時代は真正面から考えることが重要だ。

苦しんだことのあるひとの心には深みがある、というようなことが時々いわれるが、これはどういうことを意味しているのであろうか。
同じ苦しい目にあっても、その苦しみかたは、ひとによってちがう。さらりと苦しみを受け流せるひとと、不器用に苦しみをすみからすみまで味わわなければそこから抜け出せないひとと。ほとんど心に傷あとの残らないひとと、心が深層にまで掘りおこされてしまうひとと。深い心とはそのように深く掘りおこされてしまった心を意味するのであろうか。
もうひとつのみかたは、心の深さというものを、心の世界の奥行と考えてみることである。視覚によって、ものの奥行を認識できるのは眼が二つあるからである。つまり二つの異なった角度から同じものをみているから、自分からその物体への距離もわかるし、その物体そのものの奥行もわかるのである。カッシーラーはいう。「人間経験の深さも・・・われわれの見る角度を変えうること、われわれが現実に対する見解を変更しうることに依存している。」
この「経験の深さ」、もしくは「経験のしかたの深さ」が心の深さをつくるのではなかろうか。いいかえれば、ひとの心に二つ、またはそれ以上の世界が成立し、それぞれの世界が成立し、それぞれの世界から、各々ぺつな角度で同じ一つの対象をみるとしたら、この「心の複眼視」から、ものの深いみかたと心の奥行がうまれるのではなかろうか。 
生きがい喪失の苦悩を経たひとは、少なくとも一度は皆の住む平和な現実の世界から外へはじき出されたひとであった。虚無と死の世界から人生および自分を眺めてみたことがあったひとである。いま、もしそのひとが新しい生きがいを発見することによって、新しい世界をみいだしたとするならば、そこにひとつの新しい視点がある。それだけでも人生が、以前よりもほりが深くみえてくるであろう。もはや彼は簡単にものの感覚的な表面だけをみることはしないであろう。ほほえみのかげに潜む苦悩の涙を感じとる眼、ていさいのいいことばの裏にあるへつらいや虚栄心を見やぶる眼、虚勢をはろうとする自分をこっけいだと見る限―そうした心の眼はすべて、いわゆる現実の世界から一歩遠のいたところに身をおく者の眼である。
現実から一歩遠のいたところに身をおく、ということは、生物のなかでも精神能力が文化した人類だけにできることらしい。この能力によって人間はパスカルのいうように、たとえ宇宙におしつぶされそうになったときでも自分をおしつぶすものが何であるかを知ることができる。動物のように現実に埋没して生きるのでなく、苦しむときには、その苦しむ自分を眺めてみることもできる。

自分を客観的に見る能力があるかどうかが、人間の人間たるゆえんだと思う。絶えず逆の立場でみる、考える習慣を持ちたいものである。

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