2012年12月15日土曜日

君が代

 
図書館で鶴見俊輔「身振りとしての抵抗」河出文庫を借りて読んでいる。かなりマニアックな本である。その中で「君が代」について記している文章がある。一部紹介しよう。

君が代」強制反対する運動には二つの難題があると言う。一つは、もはや大勢は決まった、その大勢になぜさからうのかという判断が、ひろく日本人にあることだ。
二つ目の難題は、なぜ今、「君が代」強制反対の運動がひろがりにくいかという理由の一部に、敗戦後にすすめられたさまざまな権力批判の運動が、自分たちの内部に「君が代」斉唱に似た姿勢をもっていたことへの認識があるということだ。「君が代」を古めかしいものとし、排除をくわだてでいる運動に、「君が代」斉唱をしいるに似た風習があったではないか。今もないと言えるかという問いかえしである。
私個人は、「君が代」をとくに好きではないし、この文章を書きながら今うたってみると、正確にうたえるかどうかもおぼつかないが、それにしても、なつかしい感じをもっている。小さい頃から何度もきいてきたからだ。なつかしい?では、これがひろくうたわれるのはいいではないか、学校の卒業式にテープを流して、生徒になじませよう、そのことに協力しろと言われると、それには反対したい。
 「君が代」をなつかしく思うということと、この歌が日本中の学校の卒業式で、公費によって購入されたテープで流されることに賛成ということには区別がある。この区別をはっきりさせ、「君が代」強制に反対する側に私はたちたい。私とちがって熱烈に「君が代」が好きで、自分ではこれをきくのが好きだが、学校で強制的にうたわせることには反対だという人があらわれると、さらにいいと思う。 
戦前、つまり大正の記憶がいくらかのこる私には「君が代」へのなつかしさがのこっている。ここで、まるごと戦中そだちの妻に意見をきくと、自分としては「君が代」は歌としてきらいだし、ききたくないし、うたいたくない。今は「君が代」をうたうことを強制されない境遇にあることをありがたいと思っている。そういう人に「君が代」をうたわない自由を保証してほしいと言う。「君が代」という歌についての感じが私とちがうが、歌いたくないものの自由を保証してほしいという意見に、私は同意する。

私自身も、子どもの卒業式の「君が代」斉唱の時、歌わなかった。しかし、あまり居心地のよいものではなかった。「君が代」を歌わない自由を保証してほしいと切に思う。

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