2013年6月28日金曜日

続ける力

 
憲法学者の伊藤真氏の「続ける力」を再度読み直した。5年前に購入して読んだものだ。あらためて感心した文節を紹介する。
「生きる」この本質は「続ける」
こと歯磨き、洗顔、朝食、通勤、登校、炊事、洗濯、掃除、昼食、仕事、学校の授業、夕食、入浴、睡眠・・・などなど、私たちは二十四時間、たくさんの行為を毎日繰り返して生きています。
意志を持って続けていることもあれば、無意識のうちに繰り返していることもありますが、私たちの日常が無数の「継続」のうえに成り立っていることはたしかです。
ですから、もしひとつのことをコツコツと反復し続けることを「地道」と表現するなら、「生きる」とはそもそもが地道な活動です。私たちはしばしば波潤万丈の人生に憧れますが、どんなに派手に見える人の人生も、それは一緒です。
個人の人生だけではありません。
人類の歴史は、一見、戦争や革命といった「派手」な事件に彩られているように思えます。しかし、それらは特殊例外的なことだからこそ、記録として残されているのであり、歴史の総体は、きわめて地道な営みの積み重ねです。
人類はさらに、「種の保存」という壮大なスケールの「継続」を行っています。
サルから進化して人類が要して以来、私たちはその遺伝子を受け継いできました。それは今後も変わることなく続けられるはずです。
地球全体に目を向けても、いま問われているのは「持続可能性」です。異常気象や温暖化、空気や水の汚染、資源の枯渇などの負の変化を食い止め、いかに生態系を維持していくかが、私たちの大きな課題になっています。
週末に、この方の講演会がある。ぜひ、聞いてみたい。

2013年6月26日水曜日

世間

 
「なぜ日本人は世間と寝たがるのか」(佐藤直樹著)という奇妙なタイトルに引かれて、読んでみることにした。その中で、面白いと思った一文を紹介する。
贈与・互酬の関係
「世間」の第一のルールは、「贈与・互酬の関係」であり、お中元・お歳暮に代表されるような、「お返し」のルールである。意外に思われるかもしれないが、おそらく毎年、このような贈答関係を大規模にくり広げているところは、先進工業国ではほかにはまずない。
つまり、日本人はモノのやりとりをすることによって、人間関係を円滑にするということを何百年もやってきたのだ。手近なところでは、ケータイのメールのやりとりもそうである。即レス、つまりメールがきたら速攻で返信しなければならないと思ってしまうのは、メールが、お中元・お歳暮と同じく、一種の贈答品としてとらえられ、時間をあけずに「お返し」をせまられるからだ。
しかもその場合に、お中元・お歳暮がそうであるように、内容は同じ程度のものでなければならない。短いメールにたいしては短いものでいいが、長いメールにたいしては長いものを返すという、バランスがとれたものでなければならない。これは強迫的とすらいってもいいぐらい、日本人の生活世界に浸透している。異様なくらい「お返し」に気をつかっているともいえる。
じつは愛情行為でも同じ問題がある。キリスト教的にいえば「愛」は見返りを求めない無償のもののはずだ。だが「世間」にあっては、愛は「贈与・互酬の関係」のなかに埋め込まれており、恋人同士の愛にせよ(-)の愛にせよ(-)の愛にせよ、「これだけしてやったのに」という気持ちがどこかにあるので、相互に「お返し」を求められることが多いし、それが強迫的になってしまうことすらある。
私は、この一文を読んで、「寂しさに負けた・・・いいえ、世間に負けた・・」という歌を思い出した。確か、題名は「昭和枯れすすき」だと思う。

2013年6月24日月曜日

パロディーの楽しみ(続)

 
   泣きっ面の蜂(泣きっ面に蜂)
(みなしごハッチ)のこと。
三人寄ればもんじゃ焼き(三人寄れば文殊の知恵)
店に入りひとりもんじゃをやるのは悲しいものがある。ほどよく焦げるまでちっちゃいかね金シャモジを握ってじっと待っているじぶんの姿が窓ガラスに映れば、悲しみはさらに深まる。来なければよかったとさえ思う。恋人とふたりでやっていても、将来の夢がどんよりと行き場をうしない小さく固まっていくような気がしてくるから、これもだめ。やはり、もんじゃは三人連れである。三人寄れば誰がなんといおうともんじゃである。
猿もおだてりゃ木に登る(豚もおだてりや木に登る)
あたりまえである。豚も木から落ちる(猿も木から落ちる)あたりまえである。
やりくり断念がき八人(桃栗三年柿八年)
それでなくとも生活が苦しいのに、八つ子が生まれてしまった若夫婦。
鼻からぼたもち(棚からぼたもち)
見たくない光景である。垢も積もれば皮となる(塵も積もれば山となる)
お風呂に入りなさい。
補欠に入らずんば止むを得ず(虎穴に入らずんば虎子を得ず)
他の大学をあたってみてください。
子どもは親の田舎を見て育つ(子どもは親の背中を見て育つ)
物心ついた頃に見た親の田舎の風景は一生の原風景になるのかもしれない。『森は生きている』を読んでいても、心に浮かんでいる森は、ロシアではなく、親の田舎の森なのである。
溺れる者は空をも掴む(溺れる者は藁をも掴む)
藁を掴む程度では、まだまだ必死さが足りない。
人を見たら並ぼうと思え(人を見たら泥棒と思え)
人は行列を見ると本能的にそのうしろに並んでしまうものらしい。先日、とっくに廃業してシャッターを下ろしているラーメン屋の前に長蛇の列ができていた。一番前のおばあさんは、シャッターに止まっている蝶々を見ていただけであった。
七転び青木(七転び八起き)
一日に七回転んでしまった青木さんのこと。
単語読みの単語知らず(論語読みの論語知らず)
英単語の意味がわからないので辞書で調べたら、その和訳の読み方も意味もぜんぜんわからなかった人はどうしたらよいのであろうか?
死人に愚痴なし(死人にロなし)
にんげん生きているからあれやこれや愚痴をこぼすのである。
 この中では、「死人に愚痴なし」が一番かな。

2013年6月19日水曜日

パロディーの愉しみ

  詩人・作家の森真紀氏のエッセイの一部を紹介
先妻は忘れた頃にやってくる(天災は忘れた頃にやってくる)恐ろしいことわざである。それに比べれば、三年前、北千住のレスーランで起きた。あの、フルコース順序間違い事件の「前菜は忘れた頃にやってくる」のほうが、とぼけていて可愛い。
落選身につかず(悪銭身につかず)何回落選しても懲りずに立候補する大地主のじじいのこと。
自信なくなり家事親(地震かみなり火事親父)リストラ時代の悲劇である。
金は万票のもと(風邪は万病のもと)政治家が好む座右の銘。たぶん世界共通。
衣食足りて警察を知る(衣食足りて礼節を知る)セーターを万引きしたうえ、レストランで無銭飲食して逮捕された男が、生まれて初めての警察の取調室でつぶやいた言葉。
悪妻盆に帰ら(覆水盆に返らず)生まれて初めお盆休みくらいは、女房に実家に帰ってもらいたいものである。朝寝、朝酒、朝湯のあとは、あーしてこ-してと夢はふくらむ。ところが悪妻にかぎって・・・。(以下削除)
 笑われっ子世にはびこる(憎まれっ子世にはばかる)テレビを見ていると、本人は笑わせているつもりなのだろうが、じつは笑われている、というケースが多い。
壁にしみありたたみに目あり(壁に耳あり 障子に目あり)ただのふつうの和室である。
親が死んだとよく休み(親が死んでも食休み)小さい項、忙しい親にかわっておやつを買ってくれた近所の「育ての親」が死んだからといっては休み、マッキーというあだ名を付けてくれた「名付けの親」が死んだからといっては休み、旅行の途中で道に迷ったとき、親切に道を教えてくれた「わが道を教えてくれた親」が死んだからといっては休む男が居る。いろいろな「親」が居るらしいが、「産みの親」はふたりとも健在らしい。
 一人でくすくす笑える。

2013年6月17日月曜日

僕の大切な友達

 
 私はエッセイを読むのが好きである。日本セッセイスト・クラブ編の「死ぬのによい日だ」というタイトルの中で、山田太一氏のエッセイを紹介する。  
僕の大切な友達
誰から聞いたか思い出せないのだが、「物語と小説の違いは、小説には人生があり物語にはない」という定義がいつのころからか頭に残っている。
異論のある人も多いだろう。「シンデレラ」や「浦島太郎」や「白雪姫」が人生を語っていない、とはとてもいえない。しかし、物語はたしかに人生の細かな現実を語ってはいない。その代り、ありそうもない話の楽しさがあるし、だからこそこめられる寓意も、端的な人生の要約もある。
一方、小説は「ありそうもない話」も、人生の細かな本当を積み上げて「ありそうな話」にしてしまう装置である。
と、妙なことを書き出したのは、パトリス・ルコントの映画「ぼくの大切なともだち」を見たせいである。この映画には物語と小説が気儘にまざりり合っている奇妙な味があった。
パリのやり手の美術商で、独身の中年男が、商売がらみである葬式に出る。その参列者の少なさに胸を突かれてしまう。自分の葬式には一体何人の友だちが来てくれるだろうかと思う。このあたりは小説風である。
男は貸切りでタクシーをやとって、思い当る友人を訪ねはじめる。「自分の葬式に出てくれるだろうか」と聞き歩くのである。これはもう物語に傾いている。ありそうもない話である。訪ねられた男も女も「あんたの葬式なんか誰が行くか」とニベもない。これもありそうもない。心でどう思おうと「もちろん行くよ」とこたえるのが多くの大人の現実だろう。
ともあれ、孤独を思い知った男は、何日も使っていたタクシーの若い運転士の人柄にひかれて行く。運転士は男の悩みにやさしい。とうとう男は「君こそ俺の友だちだ」といってしまう。
すると運転士が、それはダメだという。会って間がないから絆ができていない。サン=テグジュペリは「星の王子さま」で、友だちをつくるのには時間をかけなければいけない、と頭のいい狐にいわせている。沢山の人の中から、ある人を大切に思えるようになるには、その人のために沢山の時間を使わなくてはならないんだ、と。
いくらか記憶の変形があるかもしれないが、サン=テグジュペリを持ち出してそうい う会話がでてきたのである。
これはもう物語の色が濃く、ああこんなふうにリアルと非リアルがまざり合う世界もいいものだな、と同業の末端にいる者として教えられたような気持も湧いた。
その映画を見る二カ月ほど前、私は小学校からの友人を亡くしていた。ころびやすいという徴候がはじまってから1年ほどだったが、見る見る全身に麻痺がひろがり、入院となり寝たきりになり筆談となり、その筆も持てなくなり、本人は驚くほど穏やかだったが進行は実に容赦がなかった。黙って側にいたことがあった。時間をかけた友人を失う重みに、こっちも声を失っていた。書くと情に傾きすぎそうで、映画にかこつけて、こんな短文になった。
そういえば、「葬式」とう映画を思い出した。友、死、葬式・・。だんだんと身近になってきた言葉である。

2013年6月12日水曜日

憲法は「領海」でなく「公海」

 
雑誌「世界」の5月号で、経済評論家の内橋克人氏と、湯浅誠氏が憲法対談をしている。そのごくごく一部を紹介する。
リベラル衰退の中で市民はどう闘うか
湯浅 最短で二〇一五年国民投票はあり得るだろうという前提で考えたときに、大事かつ実はいちばん難しいのが、多様なやり方で展開するアクター同士がきちんとお互いのやり方を認め合うということです。ついつい自分と同じやり方以外の人間を批判したくなる。結局、右派は結束するけれども左派は難しいという、同じことが繰り返される。今度それをやったら自民党的改憲にもっていかれることになります。
ワンイシューだと小異を捨ててみんなが一緒にまとまれるかというと、そう簡単にはいかない。というのは、九六条の問題で国民投票にかけられるときに、当然ほかの条文の解釈も見越した判断になりますから、脱原発で組めていないように、九六条以外の評価で対立する意見を持っている人たち同士は、やはり組めなかったりする。もちろん、そうなるとは限らないし、そうならないようにしなければいけない。
内橋 敬愛する佐高信さんは日本国憲法、なかで九条は「領海」ではなく「公海」だ、と。
ただ一つの国の基本法にとどまるものでなく、世界に普遍の人間知である、と。
それを「領海」に閉じ込めて廃棄しようとする勢力が政権を乗っ取った。まさに民主党政権への失望の裏返しです。民主党の責任は大きい。彼らに贖罪の念はあるのか。
民主党政権成立のころはリベラル色が強く、実行された政策には、国民生活の細部にわたる、かなりな先駆性がみられたと思います。生活保護の母子家庭に対する加算の復活を長妻厚労相の時に真っ先にやった。そういうものを拾っていくと、当初はかなりリベラルだった。それがいつの間にか一変する。その過程で一体何があったのか。一つにアメリカの意向があることは、ウィキリークスが暴露したアメリカ国務省ヽ外交公電からもわかります。小沢裁判もそうですが、アメリカの巧緻な計略と圧力で、民主党政権のすべてが無力でダーティーなイメージへと塗りかえられていった。
いまの安倍政権は、全身これ「アメリカ奉仕者」です。優れた詩人、アーサー・ビナードさんははっきりと言う、「日本はもう完全にアメリカの植民地か属領ですよ」と。アメリカ人の側からみて、どのように日本がアメリカの傘の下に嵌め込まれていったか、透視図のように見透かしている。
湯浅 安倍政権と鳩山政権をよく頭の中で比べてみるんですが、二〇〇九年の政権交代の時も、実は個別の政策についての国民的な支持率は高くありませんでした。民主党に投票するという人は四割くらいだったけれども、子ども手当や高校授業料無償化をどう思うかと個別に聞かれれば、賛成の人は二割いなかった。だから個別の政策が支持されてのことではなくて、自民党ではなく民主党という投票の人が多かった。今回も全く同じで、国防軍を支持して自民党に入れたわけではなく、民主党がだめだから自民党にという人が多かったんです。常にそうやって否定形で選ぶところは変わらない。
二〇〇九年の秋にも、自民党や財界はけっこう最初から子ども手当を「ばらまきだ」と批判していましたが、主流の言論にはならず、遠くで文句を言っているみたいな感じだった。潮目が変わったのはやはり、政治と金の問題だったと思います。鳩山さんのお母さんの献金と陸山会事件。逆に言うと、それくらいのスキャンダルが出ないと、いまの勢いが自動的に失速したり、みんながいろいろなことに気づいて潮目が変わるというのは難しいかもしれない。
内橋 安倍首相らは「自民永久政権、再び」を狙って、この任期中にあらゆる装置づくりを進めるでしょう。湯浅さんたちは国民投票を視野に入れた運動をすでに始めておられる。さすがです。何としても前進させていただきたいですね。
湯浅 はい。どこまでできるかはともかく、頑張ります。
佐高信氏の九条は「領海」ではなく、「公海」であるとう表現はわかり易い例えである。

2013年6月10日月曜日

働く理由・理想の仕事

 
毎日新聞の日曜版に日本医科大学特任教授海原純子氏の「新こころのサプリ」に「働く理由、理想の仕事」というエッセイが載っていた。一部紹介する。
就職活動中の学生さんに「どんな仕事をしたいの?」とたずねたら、「人を幸せにする仕事なら何でもいいんです」という返事が返ってきてびっくりしたことがある。自分が若いころはそんなことまで考えるゆとりはなかったなあ、などと思いつつしばらくして同じ質問を別の大学でしてみたらやはり同様な答えが返ってきたので今の学生さんたちはそうした視点をもって仕事に臨んでいるのか、あるいは就職試験用の模範的な解答なのか、どうなのだろう、などと考えてしまった。
さて、この就職難の時代、せっかく就職したのにすぐやめてしまう若者に理由をきくと「やりがいがない」という返事が返ってくることが多い。これまたびっくりする。やりがいがある仕事を担当するまでどれ位時間がかかることだろう。そして更に大学卒業後、優秀なのに何度就職してもすぐにやめてしまう人にきいたら「尊敬できる上司のもとで働きたいがいない」という返事でこれにも驚いた。
若い人たちの意見をまとめると、人を幸せにして、やりがいがあって、尊敬できる上司がいる職場での仕事を求めているのだ。とてもよくわかる。しかしひとつ大事なことを忘れている。
理想の仕事ができるようになるには多くの時間と努力が必要で困難がある、ということである。人を幸せにするために忙しさで自分の体に負担がかかり生活に支障をきたすこともある。
そのバランスをどうするか。やりがいのある仕事ができるまでの一見無駄にみえる雑用のような仕事をどのようなモチベーションでのり切るか、ドラマに登場するような理想の上司がいなくてもどうのり切るか、そんな困難の中を自分なりに生き抜いた時、はじめて成長した自分に納得できることを知らせなければいけない。
ドラマで理想の上司や仕事を放送するのはいい。しかし現実の厳しさの中で成長する苦労と喜びも伝える必要があると思う。
これを読んで私は、以前紹介したことのある渡辺和子氏の「置かれた場所で咲きなさい」という本を思い出した。

2013年6月6日木曜日

天皇と人権

 
直木孝次郎の「歴史を語り継ぐ」からもう一つ紹介する。
天皇と人権
このごろ私の思うことの一つは、天皇と基本的人権の関係である。
憲法は国民の基本的人権を保障しているが、その一方で、皇位は世襲と定め、皇室典範の規定では天皇の長男は皇位を継ぐことになるから、天皇の長男には職業選択の自由がない。
天皇になると、先祖の神をはじめ八百万(やおおろず)の神々を祭らねばならないから、キリスト教の信徒になったり、仏教を奉じたりすることができない。天皇には憲法の定める信教の自由(第二十条)も職業の自由(第二十二条)も空文である。
結婚も「両性の合意にのみ基く」と憲法の第二十四条に規定するが、皇室典範では「皇族会議を経ること」とし、真の結婚の自由はない。
念のために皇室会議の構成を記すと、議長は首相で、衆参両院の正副議長、宮内庁長官、最高裁判所の長官と判事一名、皇族二名の計十名である。
このように基本的人権のない天皇を、日本の象徴として仰ぐというのは、日本人の人権意識の希薄にもとづくのではあるまいか。二〇〇七年五月の憲法記念の日に、私はつぎの短歌を作った。
天皇制 やめて天皇に あげたきは 基本的人権 信教の自由
天皇を、天皇自身の基本的人権の観点から論じているのはすごい。我々の人権意識の希薄さからきているとは・・鋭い。

2013年6月3日月曜日

南京大虐殺

 
戦争を体験し、その反省の上に戦後歴史学をリードしてきた学者、直木孝次郎の随想「歴史を語り継ぐ」を読んだ。その中の一つを紹介する。
南京大虐殺をはじめて知った時
私が旧制高等学校に入学したのは一九三八年(昭和十三)四月のことだったが、日中の全面戦争は前年の七月に始まっており、その年十二月には陸軍は南京に入城して、悪名高い南京大虐殺事件を惹き起こした。このことは当時、日本では秘密にされており、ほとんどの日本人は戦後、戦争犯罪を裁く市ヶ谷の国際法廷の審議などではじめて知ることになるが、事件が起って数カ月後、そのことを知っていた友人が、私の身近にいたのである。
私が入学した旧制一高には、特設高等科という名称の、主として中国からの留学生を教育する部門が設けられていた。一高は全寮制なので、留学生も分散して私たちと一緒の部屋にはいっていたが、私はたまたま同室となった「満洲国」からの留学生C君と親しくなった。C君は母上が日本人で、C君も日本語が自由であった。
南京事件の起った翌年、つまり私の入学した年の秋であったと思うが、C君と二人で雑談していると、C君がふと、「日本はシナで相当ひどいことをやっているようだな」と言った。当時軍隊を信用していた私は、「そんなことはあるまい」と応じたら、C君はポケットから一枚の新聞の切抜きを取り出して、「こんな写真がある」と私に見せた。フランス語の新聞であったと思うが、大きな壕のなかにたくさんの中国人の市民が折り重なって倒れている写真である。ショックを受けたが、まだ日本軍を信じていた幼稚な私は、「それはトリック写真だろう」と言った。C君はだまって新聞をポケットにしまいこんだ。おそらく私を軽蔑しながら。
私は南京事件の真相を知る機会をみすみす逃してしまった。しかし知らないのは一高では日本人生徒だけで、特設高等科の生徒のあいだでは、いや東京の中国系留学生のあいだでは、南京大虐殺事件は周知のことであったのだろう。日本人だけが知らなかったのである。
いま一部の人の騒いでいる「従軍慰安婦はいなかった」という問題も同じである。国内では勝手なことをいえるが、国際社会で論じたらだれも相手にしてはれれないだろう。日本人の破廉恥と無責任さを世界にひろめるだけである。
維新の会の橋下氏の発言はまさに、破廉恥と無責任を世界にひろめたのである。