2013年6月17日月曜日

僕の大切な友達

 
 私はエッセイを読むのが好きである。日本セッセイスト・クラブ編の「死ぬのによい日だ」というタイトルの中で、山田太一氏のエッセイを紹介する。  
僕の大切な友達
誰から聞いたか思い出せないのだが、「物語と小説の違いは、小説には人生があり物語にはない」という定義がいつのころからか頭に残っている。
異論のある人も多いだろう。「シンデレラ」や「浦島太郎」や「白雪姫」が人生を語っていない、とはとてもいえない。しかし、物語はたしかに人生の細かな現実を語ってはいない。その代り、ありそうもない話の楽しさがあるし、だからこそこめられる寓意も、端的な人生の要約もある。
一方、小説は「ありそうもない話」も、人生の細かな本当を積み上げて「ありそうな話」にしてしまう装置である。
と、妙なことを書き出したのは、パトリス・ルコントの映画「ぼくの大切なともだち」を見たせいである。この映画には物語と小説が気儘にまざりり合っている奇妙な味があった。
パリのやり手の美術商で、独身の中年男が、商売がらみである葬式に出る。その参列者の少なさに胸を突かれてしまう。自分の葬式には一体何人の友だちが来てくれるだろうかと思う。このあたりは小説風である。
男は貸切りでタクシーをやとって、思い当る友人を訪ねはじめる。「自分の葬式に出てくれるだろうか」と聞き歩くのである。これはもう物語に傾いている。ありそうもない話である。訪ねられた男も女も「あんたの葬式なんか誰が行くか」とニベもない。これもありそうもない。心でどう思おうと「もちろん行くよ」とこたえるのが多くの大人の現実だろう。
ともあれ、孤独を思い知った男は、何日も使っていたタクシーの若い運転士の人柄にひかれて行く。運転士は男の悩みにやさしい。とうとう男は「君こそ俺の友だちだ」といってしまう。
すると運転士が、それはダメだという。会って間がないから絆ができていない。サン=テグジュペリは「星の王子さま」で、友だちをつくるのには時間をかけなければいけない、と頭のいい狐にいわせている。沢山の人の中から、ある人を大切に思えるようになるには、その人のために沢山の時間を使わなくてはならないんだ、と。
いくらか記憶の変形があるかもしれないが、サン=テグジュペリを持ち出してそうい う会話がでてきたのである。
これはもう物語の色が濃く、ああこんなふうにリアルと非リアルがまざり合う世界もいいものだな、と同業の末端にいる者として教えられたような気持も湧いた。
その映画を見る二カ月ほど前、私は小学校からの友人を亡くしていた。ころびやすいという徴候がはじまってから1年ほどだったが、見る見る全身に麻痺がひろがり、入院となり寝たきりになり筆談となり、その筆も持てなくなり、本人は驚くほど穏やかだったが進行は実に容赦がなかった。黙って側にいたことがあった。時間をかけた友人を失う重みに、こっちも声を失っていた。書くと情に傾きすぎそうで、映画にかこつけて、こんな短文になった。
そういえば、「葬式」とう映画を思い出した。友、死、葬式・・。だんだんと身近になってきた言葉である。

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