2014年11月29日土曜日

福岡ハカセの本棚


生物学者 福岡伸一氏の「福岡ハカセの本棚」を読む。思索する力を高め、美しい世界、精緻な言葉と出会える選りすぐりの100冊を紹介している。その中で須賀敦子氏のエッセイ「地図のない道」の中の一部を紹介する。
幾何学の美をもつ文体
小説ではありませんが、非常に構築的な作品を残した作家として、須賀敦子について触れたいと思います。須賀はこれまで紹介してきた作品とはまったく毛色の違う、しかし、やはり精微な地図を思わせるたたずまいの作品で、私が長く傾倒してきた人です。
いつの頃からか、彼女を知った私は、手元に著作を集めで繰り返し読むようになりました。その魅力は、なにより幾何学的な美をもった文体にあります。柔らかな語り口の中に、情景と情念と論理が秩序をもって配置されている。その秩序が織りなす美しい文様。長くイタリア文学の翻訳に携わった須賀がエッセイを書き始めたのは、60歳を過ぎてからだったといいます。
須賀の随筆は、まるで物語をつくるように練り上げられた土台の上に築かれています。ストーリーを支える柱が整然と配置され、あるいは、二つの文章があたかも2本の柱のように対峙する。彼女も、私と同じように建築が好きだったのではないでしょうか。
あるとき須賀はヴェネツィアを旅し、インクラビり(治る見込みのない病)という地名を知ってたじろがされます。
「どこの国語や方言にも、国や地方の歴史が、遺伝子をぎつしり組み込んで流れる血液みたいに、表面からはわからない語感のすみずみにまで浸透していることを、ふだん私たちは忘れていることが多いし、語学の教科書にもそれは書いてない。だから、よその国やよその都市を訪れたとき、なにかの拍子にそれに気づいてびっくりする。その土地では古くからいい慣わされていて、だれもそれについてなんとも思わない場所の名などが、旅行者にはひどく奇妙にひびくことがあるのも、そのためだ。小さいときからそれを聞き慣れている人たちにとっては、まったくなんでもない言葉や表現なのに、慣れないよそ者は目をむいて立ち止まる。」
この一文は最後の著作として残された『地図のない道』から引用したものです(「ザッテレの河岸で」)。須賀作品の中で私が最も愛する文章です。そこには、他の作品と同じように、彼女の人生の長い時間、認識の旅路が美しく結晶しています。私の『世界は分けてもわからない』に、かつて須賀が立ちつくしたこの同じ場所を訪れたときの物語を記しまた。私はその文章が描き出す精微な地図を確かめに、彼女がたびたび訪れたというヴエネツィアにまで旅をしてしまったのです。
須賀敦子の作品は、何度読んでも新しい感動と発見をもたらしてくれます。次々に出版される新刊本を、流れのまま手に取ることも読書のあり方だと思います。しかし、私自身は、自分が本当に好きな作家の著作を繰り返し読むことに最大の喜びを感じるのです。
私自身も外国へよく行くが、同じ場所へ何度も行く。日常会話が全くわからないことで、かえっていろんな事に興味がわくのである。須賀敦子の作品を読んでみたくなった。

2014年11月27日木曜日

ヘイトスピーチ


毎日新聞海外からの発言を紹介
ヘイトスピーチの法規制
パトリック・ソーンベリー元国連人種差別撤廃委員、英キール大名誉教授
「人種差別撤廃条約」が国連総会で採択されて来年で50年になる。民族的少数者ら社会的少数派への憎悪をあおる「ヘイトスピーチ」を法律で禁じるよう求める条約だ。スピーチ(言論)という言葉が少し誤解を与えているようだが、ヘイトスピーチの真の問題は、語られる言葉そのものではない。差別の扇動が社会にもたらす影響にこそ危険がある。ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺もそうだ。人種主義的な扇動がジェノサイド(大虐殺)をもたらした。こうした例が歴史にある。
だから、ヘイトスピーチの禁止は単なる「言論の自由」の規制ではない。表現の自由とのバランスは大事だが、ヘイトスピーチが社会的少数派から自由な言論を奪ってしまうという実態がある。多数派は、社会における力関係を利用して少数派を一方的に傷つけ、沈黙させるからだ。
どんな国でも完全な表現の自由は存在しない。タブーというものがある。児童ポルノであれ、ジェノサイド扇動であれ、社会の調和を乱す表現にはおのずと線引きがなされてしかるべきだ。
その際、あいまいな規定で規制するのは問題だ。明確かつ適切な境界線を引く努力を続けなければならない。
差別的な表現でも、聞いた人が気分を害するだけなら処罰の対象とする必要はない。だが、人間の尊厳を踏みにじったり、(特定の人種や民族グループについて) 「社会に居場所がない」などと公言したりするのは許されない。法規制の対象とするかどうかの判断は、そうした言動がどのような文脈でなされたかが大事だと強調したい。その国や地域における過去の歴史も判断の上で重要な要素となる。
人種差別を禁じる法を制定し、刑法や民法を組み合わせた法的枠組みを作る必要がある。刑法で処罰するのは最も深刻な場合に限るべきだ。
法規制が逆に社会的少数派の抑圧につながったり、正当な抗議の制限に使われたりするのも防がねばならない。そのためには、実際に法を運用する裁判官や警察への教育が非常に重要となる。国際的な人権基準を含む教育はメディアにも必要で、市民が言論によってヘイトスピーチに対抗するのも大事だ。法律を作れば問題が解決されるわけではない。そこから差別をなくす取り組みが始まるのだ。
ヘイトスピーチに対してどう対応していいのかと考えていた時、この記事に出会った。ヘイトスピーチの禁止は単なる「言論の自由」の規制ではない。多数派が力関係を利用して少数派を一方的に傷つけ、沈黙させるからだに納得した。

2014年11月25日火曜日

現代秀歌 あとがき


永田和宏氏の「現代秀歌」(岩波新書)を読む。氏は細胞生物学者であり、歌人である。妻は4年程前に亡くなった歌人「河野裕子」氏である。彼が、今後100年は読まれて欲しいと願う、現代の秀歌100首を載せている。今回はそのあとがきの一部を紹介する。
また、こうして択んできてつくづく感じるのは、短歌という詩形式、その作品は、私たちの生活、あるいは人生と、実に密接な距離をもって作られているということでもあった。すなわち、歌が作者の「時間」に沿っているのである。人生という時間軸に沿って、さまざまの経験をする。そのそれぞれの(時)に、それぞれの体験が詠われる。そんな作者の時間にピン止めされた作品は、やはりあとから読み直しても魅力的に映るものである。これは私の持論でもあるが、私が歌を作るとき、もっとも大切に考えているのは、「自分の時間にだけは嘘をつかい」という一点である。
どのような歌があってもいいし、どのような虚構が詠われていてもいい。しかし、五句三十一音の短歌として表現された言葉が、作者の(現在)を映していないならば、読者としてその作品につきあう意欲がいっぺんに希薄にならざるを得ない。たとえそれが回想の歌であり、詠われている「内容」が過去のものであっても、その「過去」を詠っている作者の(現在)が作品のなかに感じられなければ、歌としての魅力はないと私は感じる。
この点については、本当はもっとスペースを割いて論じなければ誤解を招きそうであるが、ここでは私の信念くらいにとっておいていただきたい。
もう一点だけ、現代の短歌について私が感じていることを述べておきたい。それは、歌は「訴う」起源を有するという説ついてである。これがどれほどに確立された説であるかはここでは問題にしないが、本書の冒頭でも述べたように、歌で自らの考え、感じたこと、思い、意見を伝えるというその特性については、もっともっと大切に考えられていいと私は思っている。
私は現在、歌壇のいくつかの賞に関係し、審査委員を引き受けているが、多くの応募作について、作者が何を誰に伝えようとしているのかが希薄な作品が、特に若い世代に多くなっていることに危倶の念を抱いている。もっと自分の伝えたいことをしっかりと相手に伝えたいというスタンスでの作歌がなされてよい。
作者の現在を、どのように謳う、訴えるかがないと心に響かないということは、歌だけの話ではない。相手に伝えたいというスタンス。これがどんなことでも大事だと思う。

2014年11月21日金曜日

モンゴル


毎日新聞の「発言」(海外から)を紹介。
北朝鮮の核には包括策で
ジャルガルサイハン・エンクサイハン モンゴル特任大使
モンゴルは冷戦終結後、市場経済を採用し非同盟政策をとるようになった。だが、社会主義時代の旧友を見捨てることはしていない。北朝鮮はそんな国の一つだ。多くの分野で関係強化を図り、地域の核安全保障の問題でも定期的に意見交換している。
北朝鮮は核兵器を開発し保有する理由について、米国と西側諸国が北朝鮮の政治体制に敵意を抱き、転覆させようとしているからとか、米国が直接・間接的に核兵器で威嚇するから自国防衛に必要だと説明する。他国を攻撃する意図はなく、抑止力なのだと。
我々は、そのような問題は政治的に解決されるべきだと考えている。軍事的に解決しうるのは問題の一面でしかなく、軍備増強は持続できない。平和共存のためには、課題をオープンに話し合い、妥協点を探ることが必要だ。北朝鮮の核兵器はモンゴルに対して向けられてはいないが、いかなる核も世界中への脅威となる。核大国の中露に挟まれたモンゴルはこれまで、核兵器の非合法化や廃絶を支持してきた。
我が国は独自に非核兵器地帯を宣言し、その地位を核保有5カ国の米英仏霧中が尊重すると確約してくれた。北朝鮮にもこうしたモンゴルの非核政策を伝えてきた。だが、北朝鮮はモンゴルとは状況が異なると考えている。
北朝鮮と日米中韓露が核問題などを話し合う6カ国協議・は、2008年を最後に開かれていない。残念ながら現時点では「やるべきことをしていない」と互いに非難し合うだけで、解決に向けた政治的意志が十分でない。
6カ国協議を再開させ、北朝鮮の非核化を進めるには、モートン・ハルペリン元米大統領特別補佐官が提唱した、6項目の包括的アプローチが理にかなっている。北東アジア非核兵器地帯の創設をはじめ、朝鮮戦争の戦争状態の終結やエネルギー支援などが含まれ、お互いに利益となる内容だ。
交渉は簡単ではない。だからこそモンゴルのエルべグドルジ大統領は昨年9月、国連総会の核軍縮ハイレベル会合で北東アジア非核兵器地帯の創設に向け、非公式な場で可能性を探ることを提言した。日本も唯一の戦争被爆国として、重要な役割を果たすことができる。来年被爆70年を迎えるにあたり、北東アジア非核兵器地帯の可否について検討を始めてはどうだろうか。
モンゴルと言えば、ほとんど「大相撲」の横綱の出身地ということしか浮かばないかもしれない。モンゴルの大統領の提案はまさにその通り。

2014年11月19日水曜日

メッキ


毎日新聞の小さな記事に、同志社大学教授、浜矩子氏の「メッキはがれたアベノミクス」という囲み記事が載っていた。今回の「解散・総選挙」の実態を簡潔に示しているので紹介する。
景気は悲惨な状況だ。消費や設備投資といった内需が低調なうえ、円安効果は輸出額よりも輸入額を増やす方向に働いて外需も伸び悩んでいるからだ。消費税増税だけのせいだろうか。アベノミクスのメッキがはがれ、本当の実態が見えてきたのではないか。
アベノミクスの問題点は、ご祝儀相場のように市場をあおり、株価を上げれば、皆が元気になると考えたこと、そして「円安が進めば日本経済は成長する」という時代錯誤の考えで政策を進めたことにある。これらの問題点の結実が今の景気だ。実体経済がここまで追い込まれる中、消費税を再増税してはつじつまが合わない。財政再建の観点からは禍根を残すが、増税の延期はアベノミクスの当然の帰結と言える。
でも、アベノミクスの失敗と衆院解散・総選挙との間に脈絡はない。将棋で負けそうになったからといって、将棋盤をひっくり返すようなものだ。「野党の準備の整っていない今なら選挙に勝てる」との安倍晋三首相の思いしか見えない。本来であれば国会で説明をし、論戦を経て仕切り直しの方向を示すべきなのに、衆院選で目くらましをしようとしている。国会論戦という民主主義のプロセスを無視し、国民を愚弄する行為だと思う。
日本経済が抱えている一番大きな問題は、豊かさの中の貧困問題だろう。富が偏在しているから中低所得者の財布のひもが締まり、消費が盛り上がらない。今やるべきことは、富者をますます富ませる株高・円安推進策ではない。弱者救済の観点を前面に出した、貧困世帯や低所得者の生活支援だ。
消費税増税も安易に先送りするだけでなく、その間、軽減税率導入といった有効な低所得者対策を考えてほしい。同時に、高額商品に「加重税率」をかけるなど、お金持ちから税金をとれるようにする努力も忘れてはならない。
 まさに、だだをこねた子供が、「こんなはずじゃない!」と言って、将棋盤をひっくり返すようなものだ。

2014年11月12日水曜日

自立とは


二木立氏の「ニューズレター」の中に、何度か紹介している「私の好きな名言・警句」がある。今回はその中から鷲田精一(哲学者)氏の言葉の所を紹介。
鷲田清一(哲学者)
「自立すれば自分が好きになるというのは嘘です。というか、自分をふり返ると嫌なところばかり目につくのが常で、自分が好きな人などめったにいるものではありません。自立している、つまり大人であるというのは、自分に自信をもっているということでもありません。
自立というのは、自分の今がどれだけ多くの人に支えられてあるかを熟知しているということです。そしてだれかが困窮していれば、自分のことは後回しにしても、まずはその人の支えになろうとして動く、そんな用意があるということです。
どうしたら自分が好きになれるかなどとぐずぐず考える自分は放っておいて、どうしたら困っている人の役に立てるかと問うことからやり直してください」「読売新聞」2014920日朝刊、「人生案内」20代後半の男子大学院生で「温室育ちで育ったボンボン」から「どうしたらもっと今の自分を好きになり、もっと自立した人間になれるのか」と相談されて、こう回答えた。
二木コメント-痛快な回答であると同時に、「自立」についての深い理解が含まれていると思いました。
私は、「自分のいいとこ探し」とか「自分探し」ということが嫌いである。鷲田氏は私が思っていることと同じことを、哲学者らしい言葉で言っている。

2014年11月11日火曜日

杖ことば


 五木寛之氏の「杖ことば」を読む。ことわざ力を磨くと逆境に強くなるとして「ことわざ」に関連して五木氏の考えが述べられている。
 その中で、「一寸先は闇」というタイトルの一部分を紹介する。
一度は会っておきたい人もいます。片づけておかねばならぬ仕事もあります。後事を托する人も探さねばなりません。
そんなことより、もっと急がねばならないのは、部屋の整理でしょう。手紙類をシュレッダーにかける。不要な本を売りはらう。捨てるべきものが山ほどあって、その選択に悩むはずです。
それよりも何よりも、自分の一生を静かにふり返って、一応の納得をしなければなりません。「見るべきものは、すでに見つ」と、堂々と言いきれる人は幸せです。
もし、 あと三年でこの世を去ると、はっきりわかったならば、突然、人生や世の中がこれまでとちがって見えてくるはずです。
午後の日ざし、葉をゆらす風、人びとのざわめき、指先の感触、一分一秒の時間の流れ。
それらのすべてが、くっきりと、深く体に感じられるのではありますまいか。しかし、私たちは自分の残り時間を知ることができない。いつまで生き、いつ死ぬかをはっきりと確認することも不可能です。
人は老い、やがて病み、そして必ず死ぬ。
それはわかっています。人間はオギヤアと生まれた瞬間から、すでに「死」のキャリアなのです。HIVはときに発症せずにすむこともあるそうですが、 「死」は百パーセント発症します。
世の中は当てにならないことばかりです。その中でたった一つ、絶対に確かなものがあります。民族にも、時代にも、すべてに関係なく百パーセント確実なこと、それは「人は死ぬ」という真実です。
「死」といっても、なんとなく自分には関係がないような気がしています。頭では理解していてもそれほど身近なこととは思えません。
最近、そのことがさらに進んできているようです。それは「目に見える死」が、きわめて少なくなってきたことに原因があるのではないでしょうか。
私たちの子供の頃は、人は家庭で死ぬものでした。親族や友人、知人が枕元にあつまり、すすり泣きのもれる中で死が訪れました。私も母の死に水をとった記憶があります。さらに死後、タライに湯を張って、死者の体を清めることもしました。湯の中にひたされ、光の屈折のせいで、母の体は折れ曲がったように、いっそう小さく見えたものでした。
そんなセレモニーを体験すると、死が現実味をおびてきます。が、今は九十パーセント近くの人が、病院で死を迎えるといいます。
死後の処理も、子供たちをまじえずに業者がテキパキすすめてくれます。若い人たちだけでなく、私たち高齢者までが「死」に対して距離感をおぼえるようになってきました。あと三カ月の命、と、はっきり自分の寿命を知ることができたら、どれほど楽だろうと思います。
しかし、人に天寿はあっても、それを知ることは不可能です。きょう一日、明日一日かくごと覚悟して生きるしかないのでしょう。老少不定、 などと言う。一寸先は闇、と言いながら、実際には私たちは明日がいつまでも続きそうな錯覚の中で生きているのです。
しかし、明日が来るのか、来ないのか。それは誰にもわかりません。ならば、 「一寸先は闇」と肝に銘じて生きのびていく他ないのです。
私達は、最近おおきな出来事、地震、台風等で多くの人がなくなるのを経験した。一日、一日を覚悟して生きていきたい。

2014年11月7日金曜日

じゅうぶん豊かで、まずしい社会


日経で「じゅうぶん豊かで、まずしい社会」というタイトル本が紹介されている。著者はケインズ研究で知られる英国のスキデルスキー親子である。紹介者は東京大学教授の福田慎一氏である。概略紹介する。
本書は、ケインズの研究で知られる著者たちが、資本主義における金銭的食欲に警鐘を鳴らし、よい暮らし、よい人生を実現するには何が必要なのかを探求したものである。議論の出発点が、ケインズが1930年に発表した「孫の世代の経済的可能性」で描いた世界にある。あまり知られていないこの小論文でケインズは、持続的な技術の進歩によって金銭的な必要性に煩われない社会がやがて生まれると予測した。
しかし、ケインズの成長予測が的確であった一方で、今日、多くの人々はなお当時と同じくらいがむしゃらに働いている。著者たちはこれを悪弊と呼び、ケインズが予測した理想、社会がなぜ実現しないのかを説く。
今日の資本主義が結果的に所得の不平等を生み出すと指摘している点で、本書はトマ・ピケティ氏の『21世紀の資本論』と共通点がある。ただ、同書が膨大なデータに基づいて富が集中している世界の現状を客観的に描くのとは対照的に、本書は人々の飽くなき「金銭的貪欲」が格差拡大を生み出すことを、先哲の言葉を引用しながら観念的に訴えていく。
著者たちにとってみれば、本来は「満ち足りた世界」であるはずの先進国で「金銭的貪欲」が追求されることは、社会的な弱者だけでなく、金融街で桁外れの高額報酬を得ている人々にとっても不幸ということになる。現代社会には、お金には換えられない健康、安定、尊敬、人格、自然との調和、友情、余暇という7つの基本価値がある。この基本価値を持つことこそが、豊かな社会でのよい暮らしにつながるといつのが、著者たちの信念といえる。
ケインズが指摘したように、経済が発展途上の段階では、「人々の金もうけへの本能や金銭欲への絶え間ない刺激」が資本主義を支える。貧しい国にとって、物質的な成長は豊かさの実現につながり、それに寄与する資本主義の役割は重要となる。ただ、経済が十分に豊かになれば、成長への動機は社会的に容認されなくなり、資本主義は富の創造という任務を終える。そこでは、無限の欲望を満足させるために希少な資源を使うことは「目的のない合目的行動」にすぎない。 
本書で展開されるこれらの議論は、自由放任を信奉する市場原理主義とは相いれないかもしれない。評者も違和感がなかったわけではない。ただ、21世紀の資本主義のあり方が大きく問われている今日、本書が議論のあり方に大きな一石を投じたことだけは間違いない。
トマ・ピケティー氏の「21世紀の資本論」といい、本書といい、今発売される理由は、今ほど資本主義による貧しさが顕著になっている時代はないということからきていると考える。

2014年11月4日火曜日

スピーチ


「ブックオフ」で税別100円の本を購入した。定価は税別933円の本である。本の名は「大人の流儀」著者:伊集院静2011年発売である。その中に結婚式でのスピーチの事が書いてあったので紹介する。
大人が結婚式で言うべきこと
結婚式に招待されるというのは喜ばしいことであるが、時に厄介な場所に行かぬばならないという気分がするらしい。
服装はどうするか。祝儀はいくら包むか。もしスピーチでも指名されるようならどうしたらよいか・・・。めでたい席であるのに頭をかかえる人も多いと聞いた。招待の打診がまず入ったら、これは断る類のものっではない。
ありがとうございますと返答すべきだ。(但し、急に出席を望まれた時は断ってよろしい。仕事が優先で、そう返答して怒る人はいない)
服装は礼服を持たねば、普段のスーツでネクタイ(ネクタイをしない主義の人は必要ない)。まあ身奇麗にしておけばいい。
祝儀は相場があるから招待側の地位、年齢、自分との関係で必要以上は包まない。これが大切だ。よく披露宴の食事、ホテルのフルコースの値段と引出物の値段を合わせて計算するなんてこと言う人がいるが、そんな面倒臭い話があるはずはなく、料理も引き出物も相手が勝手に選んだものだから気にすることではない。
それで恥をかいたという話は一度も聞いたことがない。近頃の結婚式は見栄が七分で、その見栄にこちらが合わせる必要はさらさらない。
スピーチを依頼されたら、これも断らない。気の利いたスピーチなど言わない方がいい。一番イケナイのは延々と話すスピーチだ。ともかく短いのが肝心。「おめでとう。こんな嬉しいことはありません。おしあわせに」これでよろしい。
たとえ内心で『何がおめでとうだ。あんな生娘を貰いやがってこんな口惜しいことはない。地獄に堕ちろ』と思っていても、ただただ笑っておく。
今まで出席した結婚式でいいスピーチだなと思ったのはいずれも作家で、売れっ子カメラマンの宮津正明君の結婚式で北方謙三氏のスピーチが良かった。ウィットに富んでいて、声も大きく、オチもあった。内容ははっきり覚えていないがさすがだった。ともかく短かい言葉で皆が柏手した。その時も他の挨拶が長かった。このように結婚式のスピーチは長いのは野暮だ。
私も立場上、何回も主賓のスピーチを頼まれているが、心がけているのは「短く」である。余分は事は言わないことだ。