2014年11月11日火曜日

杖ことば


 五木寛之氏の「杖ことば」を読む。ことわざ力を磨くと逆境に強くなるとして「ことわざ」に関連して五木氏の考えが述べられている。
 その中で、「一寸先は闇」というタイトルの一部分を紹介する。
一度は会っておきたい人もいます。片づけておかねばならぬ仕事もあります。後事を托する人も探さねばなりません。
そんなことより、もっと急がねばならないのは、部屋の整理でしょう。手紙類をシュレッダーにかける。不要な本を売りはらう。捨てるべきものが山ほどあって、その選択に悩むはずです。
それよりも何よりも、自分の一生を静かにふり返って、一応の納得をしなければなりません。「見るべきものは、すでに見つ」と、堂々と言いきれる人は幸せです。
もし、 あと三年でこの世を去ると、はっきりわかったならば、突然、人生や世の中がこれまでとちがって見えてくるはずです。
午後の日ざし、葉をゆらす風、人びとのざわめき、指先の感触、一分一秒の時間の流れ。
それらのすべてが、くっきりと、深く体に感じられるのではありますまいか。しかし、私たちは自分の残り時間を知ることができない。いつまで生き、いつ死ぬかをはっきりと確認することも不可能です。
人は老い、やがて病み、そして必ず死ぬ。
それはわかっています。人間はオギヤアと生まれた瞬間から、すでに「死」のキャリアなのです。HIVはときに発症せずにすむこともあるそうですが、 「死」は百パーセント発症します。
世の中は当てにならないことばかりです。その中でたった一つ、絶対に確かなものがあります。民族にも、時代にも、すべてに関係なく百パーセント確実なこと、それは「人は死ぬ」という真実です。
「死」といっても、なんとなく自分には関係がないような気がしています。頭では理解していてもそれほど身近なこととは思えません。
最近、そのことがさらに進んできているようです。それは「目に見える死」が、きわめて少なくなってきたことに原因があるのではないでしょうか。
私たちの子供の頃は、人は家庭で死ぬものでした。親族や友人、知人が枕元にあつまり、すすり泣きのもれる中で死が訪れました。私も母の死に水をとった記憶があります。さらに死後、タライに湯を張って、死者の体を清めることもしました。湯の中にひたされ、光の屈折のせいで、母の体は折れ曲がったように、いっそう小さく見えたものでした。
そんなセレモニーを体験すると、死が現実味をおびてきます。が、今は九十パーセント近くの人が、病院で死を迎えるといいます。
死後の処理も、子供たちをまじえずに業者がテキパキすすめてくれます。若い人たちだけでなく、私たち高齢者までが「死」に対して距離感をおぼえるようになってきました。あと三カ月の命、と、はっきり自分の寿命を知ることができたら、どれほど楽だろうと思います。
しかし、人に天寿はあっても、それを知ることは不可能です。きょう一日、明日一日かくごと覚悟して生きるしかないのでしょう。老少不定、 などと言う。一寸先は闇、と言いながら、実際には私たちは明日がいつまでも続きそうな錯覚の中で生きているのです。
しかし、明日が来るのか、来ないのか。それは誰にもわかりません。ならば、 「一寸先は闇」と肝に銘じて生きのびていく他ないのです。
私達は、最近おおきな出来事、地震、台風等で多くの人がなくなるのを経験した。一日、一日を覚悟して生きていきたい。

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