2014年11月25日火曜日

現代秀歌 あとがき


永田和宏氏の「現代秀歌」(岩波新書)を読む。氏は細胞生物学者であり、歌人である。妻は4年程前に亡くなった歌人「河野裕子」氏である。彼が、今後100年は読まれて欲しいと願う、現代の秀歌100首を載せている。今回はそのあとがきの一部を紹介する。
また、こうして択んできてつくづく感じるのは、短歌という詩形式、その作品は、私たちの生活、あるいは人生と、実に密接な距離をもって作られているということでもあった。すなわち、歌が作者の「時間」に沿っているのである。人生という時間軸に沿って、さまざまの経験をする。そのそれぞれの(時)に、それぞれの体験が詠われる。そんな作者の時間にピン止めされた作品は、やはりあとから読み直しても魅力的に映るものである。これは私の持論でもあるが、私が歌を作るとき、もっとも大切に考えているのは、「自分の時間にだけは嘘をつかい」という一点である。
どのような歌があってもいいし、どのような虚構が詠われていてもいい。しかし、五句三十一音の短歌として表現された言葉が、作者の(現在)を映していないならば、読者としてその作品につきあう意欲がいっぺんに希薄にならざるを得ない。たとえそれが回想の歌であり、詠われている「内容」が過去のものであっても、その「過去」を詠っている作者の(現在)が作品のなかに感じられなければ、歌としての魅力はないと私は感じる。
この点については、本当はもっとスペースを割いて論じなければ誤解を招きそうであるが、ここでは私の信念くらいにとっておいていただきたい。
もう一点だけ、現代の短歌について私が感じていることを述べておきたい。それは、歌は「訴う」起源を有するという説ついてである。これがどれほどに確立された説であるかはここでは問題にしないが、本書の冒頭でも述べたように、歌で自らの考え、感じたこと、思い、意見を伝えるというその特性については、もっともっと大切に考えられていいと私は思っている。
私は現在、歌壇のいくつかの賞に関係し、審査委員を引き受けているが、多くの応募作について、作者が何を誰に伝えようとしているのかが希薄な作品が、特に若い世代に多くなっていることに危倶の念を抱いている。もっと自分の伝えたいことをしっかりと相手に伝えたいというスタンスでの作歌がなされてよい。
作者の現在を、どのように謳う、訴えるかがないと心に響かないということは、歌だけの話ではない。相手に伝えたいというスタンス。これがどんなことでも大事だと思う。

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