2012年8月13日月曜日

沖縄と方言

 岩波ジュニア選書19「戦争と沖縄」池宮城秀意著は1980年初版、2010年で56刷となっている息の長い本である。それを読むと私達の知らない沖縄が見えてくる。その一部を紹介する。
 沖縄と方言
 石川啄木の「ふるさとのなまりなつかし停車場の人ごみのなかにそを聞きに行く」という歌がありますが、郷里をはなれて暮らす人にとって、自分の郷里の方言ほど心の安らぐものはありません。教科書などから学んだ共通語とちがって、方言には父母や郷里の山や川などのすべてを包みこんだような暖かさを、地方の人は無意識に抱いているものです。極端ないい方をすれば、どんなに郷里がいやで郷里をとびだした人でも、その方言には愛着をもっているものです。
ところが沖縄の方言は、沖縄の人びとにとって、明治以後決してそのようなものではありませんでした。沖縄の人びとにとって、沖縄の方言は、なるべく早く克服しなければならないじゃまなものにされました。
沖縄は日本本土とは海をへだてていたために、もともと同一であった言葉が、両方でそれぞれ別個に発達してしまい、いつしか日本の言葉とはまったくちがう言葉のようになっていました。そのうえ十七世紀以後二六〇年間も沖縄を支配した薩摩藩は、沖縄が日本化することをきびしく禁じました。そのために沖縄は、言葉だけでなく独特な文化と習慣がそのまま明治時代までつづくことになりました。
ところが明治時代に沖縄県として日本の一部になりましたので、日本本土から派遣された県知事や県の役人たちは、沖縄の言葉が日本語の一地方語であり、方言であるというよりも、外国語のような錯覚を抱いてしまいました。また沖縄の文化や習慣にたいしても同様でした。
そこで彼らは、なるべく早く沖縄の人を「日本人」にするために、共通語を奨励し、沖縄の文化を否定して、習慣などもあらためさせることにしました。そして沖縄の人びとも、大和口(共通語のことを沖範の人はそうよんだ)を話せなければ不都合だと思い、積極的に受け入れました。そしていつのまにか双方とも、沖縄の方言や文化が未開の低俗なもののような錯覚さえ抱くようになりました。学校では「方言札」をつくり、方言で話した生徒に罰としてその「方言札」を首にかけさせました。
私の知人の沖縄の人も、学校で方言としゃべると立たされたと言っていた。なんともやるせない教育である。

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