2012年8月2日木曜日

人間の覚悟

 五木寛之の「人間の覚悟」(新潮文庫714円)をブックオフで、105円で購入した。3年程前に発売されたのを、知っていたが、購入しなかった。105円という値段の魅力か。以下、気に入った文章を紹介する。

いかに生きるかを問わない
人は何のために生きるか、いかに生きるべきか、西洋でも東洋でも、多くの思想家や哲学者がそう問つづけてきました。
しかし私は、生き方に上下などない、と思うようになりました。親鸞の考えでは、その人のやることはその人が背負った業に左右され、人殺しもすれこうば善行もするが、それは本人が悪いから、偉いからではないといいます。
私の考えでは、悪人も善人もいるけれども、とりあえず生きているということで、人間は生まれた目的の大半は果たしている。存在する、生存していくこと自体に意味があるのだ、と。
仏教では「人身受亨け難し」といって、人間は六度輪廻をする中で、人として生まれる確率というのは六分の一しかないと考えます。あらゆる生命の中で考えれば、大海の一粟を拾うほどに稀なことだというのです。
人間として生まれたことに不満はあるかもしれないが、それでも他の動物や植物に生まれるよりは、人として生まれただけでも、じつに稀有なチャンスを得たということです。
その中には世間的に成功する人もいれば、失敗する人もいるでしょう。しかし、いずれにしても生まれてきて自分の人生を生きたということ、ましてや十年、二十年を生きたなら、それだけですごいことなのです。
ですから三十歳で早逝したといわれても、その人はたいへんなことを成し遂げた、人間としての価値をまっとうしたのだと考えます。
文化大革命を扱った中国映画「芙蓉鎮」の中で、投獄される主人公が、「豚のように生きぬけ、牛馬となっても生きぬけ」と声をかけられる場面がありました。
私は、人間はそういうものだと思いますし、生きていることの大変さに気がつくと、そこから感謝する気持ち、自分の命を尊敬する気持ちも生まれてくるのではないでしょうか。
自分には友だちもいない、彼女もいない、派遣社員で明日の仕事もはっきりしない、それらが事実であるとしても、だからもうどうでもいい、命なんてくだらない、だれを殺してもいい、とは言えないはずです。
どんなに惨めであっても、生きていることには大した値打ちがある。何の命でも、だの命でも存在するだけですごいことなのです。
今までは、いかに生きたか、ただ生きているだけでは意味がないではないか、そう言われつづけてきたと思います。しかし、ただ生きているだけで意味がある。
哲学者のようにものを考えなくても、みすぼらしくても生きて存在している、それだけですごいことだと私は思います。上から見るように「如何に」は問わない。下手くそでもくだらなくても少々いい加減でも、とにかく生きていることはすごい、と自分のことを認めてあげたらいいと思います。
普段は気がつかないだけで、生きるということの大変さに自分で気がつくと、それだけで押しつぶされそうになります。生きているだけでどれほどの努力があり、他力が必要なのか、それを自分自身が納得しなくてはならないのです。
生きているだけで人は値打ちがある、そう感じられなければ、「罪と罰」のように、生きている価値のない人間は殺してもいいのだという発想になっていきます。生まれて、生きて、老いて死んでいく、それをすべてやるということに価値があるのだと思うのです。


彼の考えの根底になるのは、戦争の経験である。敗戦後、植民地の朝鮮から逃げてきた経験。その時、国家はなにもしてくれなかった・・・・。国家とはそういうものであるという諦観であろうか。

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