2012年8月4日土曜日

ドキュメンタリーの力

寺子屋新書「ドキュメンタリーの力」(鎌中ひとみ・金聖雄・海南友子)をひょんなことから購入。第1刷が2005年、第2刷が2006年となっている。第3刷がないところをみると、あまり売れなかった本である。読んでみると中々面白い本であった。一部紹介する。
もう一つのメディアの可能性
テレビにはイラク戦争の映像があふれていた。毎日、何十回もブッシュやブレアや小泉が出てきて、この戦争の正当性を得々と語っている。欺瞞に充ち満ちているメディアは腐ってきている、と私はみていた。武力による紛争解決を永久に放棄する憲法をもつ国が、真っ先に国連で手を上げてアメリカの武力攻撃を支持することの重大性を棚上げにして、結局は大量破壊兵器、あるかどうかもわからない、証拠もないそんなものを戦争の大義にしていたのだから。
自分たちは知るべきことを知らされていない、と多くの人々がこの時期、テレビを観て感じ始めたと思う。実際、「ヒバクシャー世界の終わりに」を観た多くの人々が「なぜ、こんな大事なことを知らされてこなかったのか」「テレビとはまったく違う情報に衝撃を受けた」「他の人々にも知らせたい」と、感想を寄せてくれた。
すべての映像には作為がある、当然、私がつくっているものにもそれはある。それらを批判的に読み解くために、「メディア・リテラシー」が必要なのだ。メディア・リテラシーは単なる技術ではない。私が参加していたニューヨークのメディア・アクティビスト集団、ペーパー・タイガーのキャッチフレーズは「Where your brains are?」― 「あなたのおつむはどこにあるの?」というものだった。視聴者を思考停止状態に追い込む映像メディアではなく、思考を促す映像、もう一つのメディアが必要とされているのだ。そしてそれは多様なあり方でいいはずである。ケーブルテレビ、ビデオ出版、インターネットテレビなど、可能性は開かれている。
もう一つのメディアが必要な時代に私たちは生きている。なぜなら、マスメディアは権力の、そして資本のもとにあるからだ。アメリカが今回のイラク戦争でいかに強力なメディア戦略を展開したか、そのやり方を見れば、単一なメディアの危険なありようが理解できるはずだ。
もちろん、マスメディアが正常に機能すれば問題ない、という意見もある。権力から独立したジャーナリズムはたしかにマスメディアであっても可能なはずだ。それは現場にいる一人ひとりの個人に本来はよっているものである。
しかし、大きな組織の中で仕事をすることは、その組織の中で生き延びていくことでもある。これこそが今の日本のジャーナリズムが抱える問題の根源ではないだろうか?組織に逆らうこと、異議を唱えながら組織の中で生き延びていくことはできるだろうか?たとえば、イギリスのBBCは国営放送でありながら、ブレア首相のイラク戦争に関する政策をまっこうから批判した。一方公共放送であるNHKはどこをどうみても小泉政権に追従している。大量破壊兵器はなかったことがはっきりしているのに、それに関する批判の声はNHKからはまったく聞こえてこない。
視聴者を思考停止状態に追い込むメディアではなく、思考を促すメディアを創りたいものである。

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