2012年10月15日月曜日

読む人と書く人


鷲巣力氏(著述家)が「現代思想」の加藤周一特集(2009年)で「読む人」「書く人」と題して書いている文章がある。概略は以下。
加藤氏は「書く人」だったが、その理由はどこにあるのだろうか。第一に、自らもいうように、主として売文を業としていたことホある。正規の大学教員に就いていれば、暮らしの主たる糧は大学人から得ただろうし、年齢とともに給与が上がるという年功序列の恩恵にあずかったことだろう。だが、加藤氏は大学に籍を置くことはあっても長くはなかったし、籍を置いても客員や非常勤が多かった。
暮らしの糧を売文だけに求めるには、よほどの流行作家でないと難しい。加藤氏の著書は評論家としてはよく読まれただろうが、流行作家には足もとにも及ばなかったろう。だからといって、加藤氏に売文なしに暮らせるだけの恒産があったわけではない。医業を廃してからは、機会が与えられれば、できる限り受けることを原則レしないと、暮らしが成り立ちにくいという条件があった。
第二に、加藤氏は人間に対する「愛」が強かった。もちろん、家族や友人など、特定個人に対してもあふれるような「愛」を抱いていた。そればかりではない。同時代人に対する「愛」も強くもっていた。だから、同時代人に対して無関心ではいられなかった。
関心が強い対象に対しては、何らか働きかけをするものである。加藤氏の働きかけは「書く」ことだった。自分が考え、感じ、経験したことを、ひとりでも多くの読者に伝えたい、と願った。自著に対する懇切丁寧な「あとがき」を見ればあきらかだろう。加藤氏ほど自著に対する念入りな解説を行う著者も珍しい。
第三に、歴史は変わり得るという「希望」を捨てない姿勢である。幕末から明治を生きた福沢諭吉は「一生にして二生」を生きたといった。加藤氏は「一生にして五生」も生きている。青春期を大正民主主義の残照のなかで、青年期を軍国主義の暗闇から戦後民主主義の東雲のうちに、壮年期を高度成長の散光のなかで、高年期をふたたび戦争への道の夕陽の傾くなかで過ごしてきた。
加藤氏自身に対する評価も、「西洋一辺倒」から「プチブルインテリ」を経て「過激派」にまで変わった。本人は基本的には変わっていないにかかわらず、世の中が変わったからである。
世の中は悪くなる可能性もあれば、よくなる可能性もある、という認識である。されば、よくなる可能性に賭ける、という意思を確固としてもつ。その可能性を求めるために加藤氏自身ができることは何か。それは「書く」ことで、自分の考えを表明し、人びとに訴えることである。いわば「希望の戦略」を展開した。
まだ「九条の会」が発足していないころのことだった。加藤氏との会話ではしばしば「憲法」が話題となった。「国民投票にかけられたら、憲法は維持できると思いますか」と問われたので「難しいと思います」と答えた。「そうでしょうね。憲法を維持する通勤が必要だが、『負けたらおしまい』というのではダメですね」といった。
60年安保も70年安保も「改定反対運動」は敗北した。敗北のあとはおさまりの「挫折」の嵐が吹き荒れた。そのたびごとに運動は後退していった。その轍を踏まないためには「たとえ負けたとしても、それでもなおかつ続けることが大事だ」と認識していた。あくまでも「希望」にかけるという意思である。このときに加藤氏が長い闘いの航海に漕ぎだす決意をもったことを感じた。
加藤氏がなくなって、早4年が経とうとしている。あらためて、加藤氏のすごさがわかる文章である。彼が生きていたら、今の日本の状況をどう語り、書くのかを知りたいのは私だけでではあるまい。

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