2012年10月31日水曜日

いじめ論


 毎日新聞掲載の「引用句辞典」(鹿島茂)は何度も紹介するが面白い。今回は「いじめ」について、かの有名な『菊と力』ルース・ベネディクト著。鹿島氏は、その中の一部を引用しながら、「いじめ論」を論じている。以下、概略紹介する。
なにゆえに日本のいじめは深刻なのだろうか?それは「構造的」だからである。つまり、いじめは日本人の精神構造にビルト・インされているので、退治しようとしても消滅することはありえないのである。
それを教えてくれるのが日本人論の古典『菊と刀』。著者のベネディクトは一度も日本に滞在したことがないのに、対日占領政策を模索していた国務省の依頼に応えて、この不朽の名著を短期間で書き上げた。『菊と刀』で問題として設定されたのは、欧米人からは臆病に見える日本人がときとして大胆で無謀な行動に出るのはなぜかという謎で、ベネディクトはこれを解くカギを、日本人の子どもが体験する「しつけの劇的転換」に求めた。
すなわち、日本人は欧米と比べると子どものころ「最大の自由」を与えられ、甘やかされて育つが、小学校入学前後から、まず親から「世間」の笑い者にならない行動を取るようにしつけられる。次いでこの「世間」という目に見えない拘束は、学校という名の相互監視的社会へと移されて、子どもを日本的な倫理体系のうちに組み込んでいったが、その「世間」がないところ、たとえば外国や占領地、あるいは捕虜収容所では、相互監視が働かないから、思いもかけぬ大胆な振る舞いに出たのである。
現在、反いじめキャンペーンは暴力や恐喝という刑事事件的なことにのみ限定されているが、いじめの第1歩は、その対象者をクラスないしは友達グループという「世間」から「のけ者にする」ことにある。なぜなら、日本人はベネディクトの指摘するように「のけ者にされることを、暴力をふるわれること以上に恐れるからだ」これだけは、戦後七十年近く経過したいまも変わっていない。
だから、文科省がきれいごとに終始して「みんな仲良く」といった標語を掲げれば掲げるほど、「いじめ」は逆にはびこるという悪循環に陥る。なぜなら、「仲良し」のメンバーは「のけ者にされることを、暴力をふるわれること以上に恐れる」ので、自分が排除されるくらいなら他のメンバーを犠牲に差し出そうとするからだ。つまり「仲良しグループ」はなにかのきっかけで相互密告社会へと変質し、和を乱すメンバーがいれば、即座に排除の論理を始動させるのである。
いじめは「仲良し」から生まれる。日本の悲しいパラドックスというはかない。
この論でいくと、今のいじめ対策では、決していじめはなくならないと言うことになる。この、パラドックスをどうするか。あらためて考え直すことが必要になる。

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