2013年3月29日金曜日

池澤夏樹

 
3・11を忘れないために、くどいようだが、いろんな人の文章を紹介したい。今回は
池澤夏樹 「3・11後 忘却に抗して」(毎日新聞)の文章を紹介。
流されるな、論理持て
「地理的条件が国の歴史を作るのです」。作家、池澤夏樹さんは静かに、しかし、よどみなく語り始めた。
「日本の場合、島国であること。それも大海にある遠い島などではなく、大陸と1衣帯水の島。だから文明や人、技術は大陸から伝わったが、軍勢は海を渡って来られなかった。異民族支配を知らずに済んだ。思えばこの国は、実にうまくできた国土なのです。ただし、この地理的条件ゆえに、災害も多い」
ギリシャ、沖縄、フランスと移り住んできた池澤さんは今、北海道・札幌に暮らす。常に外からの視点で、日本という国を前後左右、斜めから見つめてきた。だからだろう。地政学の講義のような池澤さんの語り口を聞いていると、かなたの宇宙船からこの島国を見下ろしている気分になる。その宇宙船は、どこか“着地点”をまっすぐ目指している、そんな感じ・・・。
「災害が多いのは、大陸プレートと海洋プレートの境界線の上に位置しているから。つまり大陸の縁にあるこの島国は、それゆえ火山の噴火や地震、津波が多かった。災害と復興こそが、この国の歴史の主軸なのです」
繰り返される天災が、国民性を形づくったという。「日本人は自然と対決することを避け、むしろ絡み合うように生きてきた。勝てる相手ではないから。災害のたび、多くを失い、泣き、脱力し、そしてしばらくすると立ち上がり、再び作り上げた。江戸時代、大火を何度も体験しながら、燃えない石の家をつくろうとせず、紙と木の家を建て続けた。火事も天災と受け止めていたのでしょう。問題は、人が意志を持って行った結果である人災すら、天災と同じように受け止め、災害の責任追及をうやむやにしがちなことです」
(天)ではなく、(人)の出した火も、天災のように受け止めてきたこの国。2011311日、津波と福島第一原発の暴走を前に私たちは、天災と人災とをどこまで区別できたのかーー。ここが宇宙船の“着地点”だ。
池澤さんは言う。「原発事故を天災と受け止めた人は少なくなかった。東電は「想定外」という言葉で、人災ではなく天災、と問題をすり替えようとした。今回ばかりは日本人も随分と抗議し、責任追及している。しかし頭で「想定外」を否定しながらも、心のどこかで『大変な津波だったんだから仕方ない』とあきらめてはいないか。それを乗り越えるには論理の力が必要です」
論理がないから、私たちは流されてしまう。思えば過去にも。「第二次大戦で負けた時に似ています。日本人は政策決定者の責任を追及する前に「一億総ざんげ」してしまった。アイヌや沖縄人、朝鮮半島から来た人たちを軽視し、単一民族国家と言い募り、その一体感で『お父さん』の責任追及より『家族みんなで団結を』と問題をすり替えた。震災後、正直いうと僕はうんざりでした。『みんなで頑張ろう』だの『絆』だの・・・」 
池澤さんがふいにみせた憤りと、「絆」という言葉との不釣り合いさに、ドキリとした。震災後、人々が見出し、あるいは求めた人と人の絆は、我々の希望ではなかったのか。
「確かに今回はみんな、よく東北を助けました。ボランティアの動きも早かった」と前置きした後、こう続けた。「しかし、絆は『縛り』にもなるからね」
池澤さんは例を挙げた。たとえば、1000人の被災者がいる避難所で、300人分の食料支援を「全員に行き渡らないと不公平だから」と断った避難所。ようやく電気が復旧したのに、隣家が停電中と知って気が引けて電灯をつけなかった人々。絆を重んじるがあまり、個人の大切なものをないがしろにしなかったか。
「稲作に由来する集団主義。隣組的などうかつ、異物排除・・。東日本大震災の後、東北だけでなく、日本全体が『向こう三軒両隣主義』にさらされた。ひっそり暮らさねば、と」
思わず「自粛」や「被災地を考え、我慢しろ」という言葉が思い出された。
「さらに原発事故で対立軸が生じた。逃げるか逃げないか。『逃げられる人はいいね』とある人は言い、『子どもがいるから必死』と別の人は言った。地震や原発事故は、絆を結ぶと同時に、分断する力でもあったのです」
今、池澤さんは「脱原発」を掲げ、執筆や講演活動を続けている。「原子力は人間の手に負えません。国土は国の基本なのに、日本のまん中に何十年も住めない国土をつくってしまった。福島の人は全国各地に避難している。ディアスポラ、流浪の民を生んでしまった。大きな罪です」
「除染?世の中の毒は焼けば消失しますが、放射性物質は違う。取り除けないのだから『除染』ではなく 『移染』。そんなものを大気に、海に放出し、国際社会においても罪を犯してしまった」
日本にいる者で、責任の外にある者などいない、と明言する。だからこそ、「日本が本当に変わっていく転機としなければならない」とも。
長く外国に暮らし、各国を旅してきた作家は今、しみじみという。「東日本大震災の日、日本に住んでいて良かった」と。それはなぜ?
「外国にいたら抽象的な考え方にとどまっていたでしょうから。僕はこれまで、知らない土地に暮らし、言葉を覚え、その地の文化を徐々に理解することが面白くて仕方なかった。でも今回は違う。僕は東北という土地に取り付かれてしまったんです。頭からどうしても離れない。毎月のように通っています。ただ復興を見届けなければと思うのです」
近著「春を恨んだりはしない」の最後に書いている。東北で多くの人々が唐突に逝った。残された者は、それに付き添えなかった悔恨を共有し、それでも先に向かって歩いて行かねばならない、と。(その先に希望はあるか?もちろんある。)
池澤さんは同書の中で続ける。「希望はあるか、と問う我々が生きてここにあることがその証左だ」と。
だから最後の質問は、インタビューの前から決めていた。「東北で希望は見いだせましたか」池揮さんは一瞬の迷いもなくきっぱりと答えてくれた。「ええ。見つかりますよ」
それは例えば、被災し、仮設住宅に暮らす理髪店の青年。津波で父親を亡くしたその人は,池澤さんの髪を切りながらこう言ったそうだ。「うちなんか運がいいほうです。手に職があるしね。被災地にいても、人の髪の毛は伸びるから」

日本にいる者で、責任の外にある者などいない。この言葉は重い。希望はあるか、と問う我々が生きてここにあることがその証左だ。この言葉は力強い。
今回のキーワードは以下の3つである。
論理がないから、私たちは流されてしまう
絆は『縛り』にもなる
日本にいる者で、責任の外にある者などいない

2013年3月27日水曜日

玄侑宗久

 
「3・11後 忘却に抗して」(毎日新聞)の中で、玄侑宗久さんの文章を紹介する。


墨色の被布―――作家の玄侑宗久さんは、福島県三春町にある寺の住職でもある。寺は福島第一原発から西へわずか45キロ。震災直後の2カ月で、玄侑さんの寺の檀家だけでも5人が自殺した。
「福島県民の間で、いくつもの心の分裂が深刻化している」と言う。放射能から逃れるため福島から出る、出ない。残ったとしても地元の米や野菜を食べる、食べない。子どもに食べさせる、食べさせない。それらはまるで「踏み絵」のような苦痛を伴う。
「放射能の問題は、結局精神的な問題になってしまっています。年間100ミリシーペルー以下の低線量被ばくについては健康被害を示す明確なデータがない。現代人は分からないことに向き合うのが苦手ですからどちらかに分類したがり、その結果二つの極端な立場が生まれた。放射線は少なければ少ないほどよいと考える悲観的立場と、塩分などと同様に放射線も適量ならば体にいいという楽観的立場です。どちらも医学的には証明が難しいため、信仰に近い様相を呈しています」
万が一を考えれば、悲観的立場の方が“正義”だろう。「注意しなければならないのは、こうした態度を他県の人から取られれば、それはあっさりと『差別』になってしまうということです。福島の人とは接しない方がいい、結婚しない方がいいと」
玄侑さんは、ひとまず冷静になって原発事故前の生活でどれだけ被ばくしていたか知る必要があるとし、放射性カリウムを例に説明する。
「放射性セシウムばかり注目されていますが、もともと自然界には放射性カリウム40がある。我々にとって必須ミネラルであるカリウムのうち、0.01%は放射性カリウムで、バナナにも40ベクレル、米には1キロ当たり30ベクレルほど含まれる。体重60キロの人は約4000ベクレルの放射線を発しています。これが有害なら母親が赤ちゃんを抱くのも危ない。今福島に必要なのは、信仰やイデオロギーに陥ることなく具体を見ながら対処することです。夢のような放射線ゼロを目指すこの正しき人々が、私は最も怖いのです
福島を分裂させる原因は、国の責任放棄にもある。昨年4月から政府の東日本大震災復興構想会議委員も務める玄侑さん。放射能に汚染された土壌などを保管する「中間貯蔵施設」の建設を巡る問題を気に掛ける。野田佳彦首相(当時)は原発が立地する双葉町と大熊町を含む双葉郡(6町2村)内への設置を要請しているが、「なし崩し的に最終処分場になるのでは」との懸念もあり、結論は出ていない。
「国は、双葉郡の62村で話し合って決めてくださいと言っているが、決まるわけがない。8町村が集まれば、たとえ双葉郡内での受け入れはやむを得ないと思っていても、みんな自分の町だけには持ってこさせたくないわけです。双葉町の井戸川克隆町長は『双葉郡民も国民ですか。憲法で守られていますか』と聞きましたが、人権の問題が出てきたら、もう当事者間では決まりません。みんなの人権を守るために誰かの人権を踏みにじるのが国家の仕組みですが、その責任を国家が放棄したのですから」
玄侑さんはやや身を乗り出した。だが、怒りを抑えるように落ち着いた口調のまま続けた。「結局、自己責任の発想です。国は、町村がこう言ったからこうしたという言い訳を常に考えている。国は腹案を持っているはずですから、県も交えて腹を割って話し合い、ごまかしなく誠意をもって正面からお願いするしかないのです。犠牲を強いる代わりに当然の手当てとして、一時的にせよ永続的にせよ、町村単位で移転できる代替地を国があっせんせねばなりません。そうでなければ全国に散らばった福島県民は、完全にユダヤ人状態になってしまう。国としての責任と決断が問われています」
震災を機に、原発に代表される効率や市場経済を優先するシステムの危うさが露呈したはずだった。しかし、この国はその教訓を生かす方向には進んでいない。玄侑さんはそう感じる。
特に納得がいかないのは環太平洋パートナーシップ協定(TPP)参加に向けた、震災前と変わらない国の態度だ。「福島は風評被害だけでどうしようもない状況ですから、世界的競争力も何もありません政府はTPPに参加しなければ『バスに乗り遅れる』と言いましたが、そのバスはどこへ向かっているのか。世界の流れがおかしくなっているとは思いませんか。IMF(国際通貨基金)が助けようとしているのは、ギリシャ人ではなく、ギリシャの銀行なのですよ」と、語気を強める。

私には、以下の言葉がキーワードとして心に残った。
夢のような放射線ゼロを目指すこの正しき人々が、私は最も怖いのです
みんなの人権を守るために誰かの人権を踏みにじるのが国家の仕組み
結局、自己責任の発想です
IMF(国際通貨基金)が助けようとしているのは、ギリシャ人ではなく、ギリシャの銀行なのですよ

2013年3月25日月曜日

震災のこと 渡辺えり

 
 3・11を心に刻んで(岩波書店)から、俳優「渡辺えり」さんの文章を紹介する。
東北にあれだけの被害があったというのに、この東京の暮らしに不便がないことを不思議に思う。あれだけの人たちが亡くなったというのに、私が今、時々笑ったりしながら過ごしていることを不思議に思う。
あれから、山形に帰郷する回数が増えた。山形は東北でも地震の被害が少なく、原発事故後も奥羽山脈が放射能の風を遮った。山形市は被災した地区には車で二、三時間という距離なので、そこを拠点に瓦礫撤去や炊き出しのボランティアができた。
友人のミュージシャンや劇団員たちを募り、避難所でのコンサートや絵本の朗読、そして炊き出しや生活用品の寄付などを行った。
津波と原発事故の両方の災害で南相馬市から避難されて来た方たちが、山形市の避難所に多くおられた。炊き出しに礼儀正しく整列し、「すみませんね。ありがとうございます」と頭を下げる姿に胸が詰まった。自分たちは何も悪いことをしていないのに、こんなにも頭を下げ、ボランティアに対して感謝の気持ちを表している。子供たちにと思い持っていった絵本やぬいぐるみを、年配の方々も喜んで下さる。すべてが津波にさらわれてしまったため、記憶の中の絵本をまさぐりたい思いが強いという。そしてぬいぐるみをしっかと抱く熟年の男性たちもおられた。
もし自分ならどうしたであろう? 自分を表すものがすべてなくなるという感覚。自分というものの存在を示す記憶の鏡がすべて消えてしまう。物だけではない。温かな、生きていた身近な人たちも永遠に消えてしまう。そして、そうした体験をした直後に避難した不慣れな場所で、知らない方たちと共同生活を余儀なくされ、我慢に我慢を強いられているのに、頭を深々と下げてお礼を言うのだ。そんなことが私にできるのだろうか・・・?
子供と離ればなれのまま地元から派遣され、避難所の看護師をしている若い看護師さんたちもいた。笑顔を絶やさず、自分の生活のことは語らずに奉仕する。看護師さんたちも被災者なのにである。一緒にご飯を食べている時に、思わず号泣なさった看護師さんが忘れられない。東京から来た私の質問に、初めて「辛かった」と言えた時だった。一緒に来た人たちには自分の辛さは言えない。みんな同じように辛いからである。被災していない私にやっと泣けたという。
いつもいつも自分より相手のことを考えているそんな方々を私は尊敬する。これは津波の被害が甚大だった名取市の体育館の避難所でもそうであった。毎日の化粧が楽しみだった年配のおしゃれな山田さんは着物も化粧品もすべて流され、すっぴんで過ごす日々がつらかったけれど、一命を取り留めただけでも幸せと思おうと決意した日から笑顔を絶やさないのだとおっしゃった。そして私に貴重な飴を差し出し「頑張って!」と握手するのである。そして「ありがとう。ありがとう」とみんなが集まって来てくれる。最後の歌のあいさつをした時、「ええ?もう終わりなの?まだ帰らないで」とみんなが瞳を少女のように輝かせるのである。
自分に一体何ができるのか? これは偽善ではないのか?を取り除くことなど私にはできない。自分はこれだけのことをしたのだと自分に言い聞かせたいだけなのではないか?石渡小学校の避雑所で私の腕を掴んで泣いていた年配の女性たち。「津波のお陰で渡辺さんに会えた・・・」と冗談を言って笑ってくれた女性。段ボールの中の子供たち。

2013年3月21日木曜日

再び流民

 
河北新報の連載で 再び流民となりて 旧満州移民と原発避難 未来の人へ/「新天地開く気概を
は人生で2度流民となった人のインタビューを載せている。一部紹介する。
<苦難生き抜く>
「長生きしなさいよ。あんたは命の限り『津島を元に戻せ』と国や東京電力に叫び続けなければならん。国策被害の生き証人だ」福島第1原発事故で福島県浪江町南津島から二本松市の仮設住宅に避難する大内孝夫さん(79)を、同市に住む友人の佐藤常義さん(80)が訪ねてきた。
旧満州(現中国東北部)開拓団での幼なじみ。苦難の逃避行を一緒に生き抜いた。帰国後、大内さんは津島に再入植した。佐藤さんは10年ほど職を転々とした後、バス運転手に落ち着いた。
以前から会っては戦中戦後の苦労や近況を語り合う仲だった。最近、話題はどうしても原発事故に結び付く。
「関東軍も満鉄(南満州鉄道)も頭がいいのはソ連参戦前に家族を帰国させた「残った連中も特別列車ですぐ逃げた。官舎や社宅はガラガラだった「原発事故も同じだ。関係者の家族にまず情報が入った」
「日本は満州でひどいことをした。俺たち子どもでさえ、腹が減ると中国人の家に乗り込んで『ギョーザ出せ』だもの「中国の恨みは百年じゃ消えん。平謝りすることはないが、反省しないと「あんたも原発で家を取られた。もっと怒れ
二人の会話が続く。佐藤さんが語気を強めた。
「日本はいつもこうだった。戦争、公害、原発・・・。発展のために無理をして誰かが犠牲になる。二度あることは三度あるぞ。孝夫君、気をつけろ」。大内さんは笑って聞くだけだ。
旧満州引き揚げと原発事故避難、どちらが大変なのか。「原発だな」。福島県葛尾村から同県三春町に避難する岩間政金さん(87)は答えた。
なぜだろう。原発事故では避難所があり、食事が提供された。仮設住宅も建てられた。賠償もある。旧満州では寒さと飢えが多くの命を奪った。
岩間さんも「避難自体は今の方がずっと楽だ」と認める。「だがな」と語り始めたのは、原子力災害の特殊性だ。
<終わり見えぬ>
「山の木一本、菜っ葉一枚採れないのが悔しい。放射能は厄介だぞo戦後はやる気さえあれば何でもできた。今度は避難がいつ、どう終わるか見当もつかん」と嘆く。
犠牲者も実は多いと言う。「仮設では年寄りがずいぶん死んでる。冬になると連日葬式だ。葛尾で日なたぼっこしていれば、もう少し長生きできたろう。かわいそうに」
カネやモノだけで人は生きていけない。開拓者の岩間さんにとって、仮設住宅の生活は「芸が使えない」不完全燃焼の場だ。若者には「早く新天地を探せ」とよく話す。「世界は広い。放射能があるだけに村に帰れとは言えない。新しい仕事も12年根詰めれば一人前だ。俺たちの苦労を思えば簡単だわい」
自身は一日も早く葛尾に帰るつもりだ。「もう人生は終わり。何をしようにも間に合わない」。国策の過ちで2度、すみかを追われた。もはや消えゆく身。多くは望まない。願わくは現在の避難者が将来、再び流民にならないことを。 (福島総局・中島剛)
「日本はいつもこうだった、戦争、公害、原発・・発展のために無理をして誰かが犠牲になる。2度あることは3度ある。気をつけろ」という言葉は説得力があり、悲しい。国、東電は責任を取らず、結局「絆」という悩ましい言葉で、自分たちで再起しろと言っている。全国紙がこのような連載をして欲しいものだ。

2013年3月18日月曜日

 
 再度、佐藤優氏の「新聞」に関する考え方を紹介する。
国際的にも新聞の購読者層は減少している。しかし、政治、経済、文化エリートは、依然として新聞を読んでいる。この傾向は今後も続く。さらに書籍ならば、10万部を超えればベストセラーだ。全国紙はいずれも数百万部発行されている。新開は1日だけの大ベストセラーと考えるべきだ。大ベス-セラーは、人々の物の見方、考え方に、知らず知らずのうちに影響を与えている。
また、インターネットで無料で入手できる情報は、ほとんどが二次、三次の情報だ。インターネットでも、根っこになる第一次情報として用いられる情報の比重としては、新聞が圧倒的に大きい。新聞との付き合い方を変えるだけで、読者の情報力が飛躍的に高まると筆者は考える。これからしばらくの間、新聞活用法について詳しく論じたい。 
この連載では、以前にも新聞について論じたことがある。しかし、当時とは、大きな与件の変化があった。それは、新聞の電子化が進んだことだ。それゆえに、これまでとは異なる新聞の読み方の技法が必要とされる。
新聞電子化に対応した新たな読み方が必要
筆者だけでなく池上彰氏も新聞の重要性について強調している。そのせいか、がっついた若手ビジネスパーソンの中で、最近、宅配やコンビニで朝日、読売、毎日、日経、産経、東京を全紙購読する人がいる。
「これまでセミナーに参加したり、ビジネス書を買ったりしていたのを新聞に切り替えました。池上さんが、ベタ記事に重要な情報があると強調していたので、1面、総合面、政治面、国際面、経済面については6紙の記事のすべてに目を通すようにしています。こういう新聞の読み方を続ければ、情報力がつくでしょうか」という質問をときどき受ける。
こんなとき筆者は、「こういう極端な手法では情報力はつきません。そんな新聞の読み方をしていたら、読むだけで3-4時間かかります。そうなると本来の業務に専心できなくなる。池上さんがベタ記事から重要な情報を読み解くことができるのは、背景事情に関する膨大かつ正確な情報を持っているからです。ベタ記事を海上に浮かんでいる氷山の頭とすると、海中にはそれよりもはるかに大きな氷塊がある。この氷塊が教養です。教養が十分に身に付いていない人が、形だけ池上さんのまねをして毎日ベタ記事まで細かく読んでも、情報力は付きません。むしろ、こんなに一生懸命に新聞を読んでも'情報力が全然つかないと自信をなくしてしまうことになります。
ジャーナリズムで働く人以外は、定期購読する全国紙は1紙でいいと思います。それに加えコンビニや駅の売店で経済紙や定期購読している新聞と論調が異なる全国紙を1紙、ときどき買うとよいでしょう。夕刊やスポーツ紙を買うのでもいい。特に内政に関しては夕刊やスポーツ紙の社会面には、意外に重要な情報があります。それから、あなたが地方で勤務することになったら、全国紙1紙に加え、その地方で読まれている地方紙(県紙)かブロック紙も併せて購読することを勧めます」と答えている。
新聞は情報を得るという目的のための手段である。新聞を読むこと自体が目的となっては意味がない。
新聞を購読しない家庭が増えていくと、どんなことが起きるだろうか。家庭内で、世の中のいろんなことに対して、話し合うこともなくなるだろう。じっくり考えることも少なくなるだろう。その行き着く先は・・・。

2013年3月13日水曜日

普通でいいんだ


日経に連載中の「一言の余韻」(後藤正治:ノンフィクション作家)に、藤沢周平のことが書いてある。長女、遠藤展子さんとの話の中の一部を紹介する。

長女の遠藤展子さんと、編集者をまじえて鼎談する機会があって、作家・腰沢周平の芯にあるものがより鮮明に浮かんできたように思えたものだった。
東京住まいとなって以降も、藤沢は娘を連れてしばしば鶴岡へ帰郷している。鶴岡の何が好きだったのでしょうかと問うと、「少年期の農村の風景だったのではないでしょうか」という答えがあった。旧庄内藩の藩校に由来する致道博物館はお気に入りの場所で、江戸期の農機具や民具などを見るのが好きであったという。
作品に登場する武士たちの出自の多くは東北の小藩で、『用心棒日月抄』シリーズの主人公、青江又八郎もそうである。脱藩し江戸で用心棒稼業に身を染める又八郎と、藩の隠密組織を束ねる佐知が、やがて道ならぬ逢せ瀬を重ねていく。二人が郷里の名産、醤油で煮つけた玉こんにゃく、味噌汁に吹きこんだ雑炊、しなび大根の糠漬け・・・など語り合うシーンがあるが、著者の故郷への想いがよく伝わってくる。
展子にとって父藤沢周平は「ごく普通の父親」であった。いつも二階仕事場の和机で黙々と原稿用紙に向かっていたが、作品や仕事の話はまったくしない。日常会話はおおむね「あ、い、う、え、お」で済んだとか。「ああ」「いいよ」「うん」「ええ」「おう」である。無口であったが、それでも耳に残っている父の言葉に「普通でいい。普通の人が一番えらいんだ」がある。展子にとってそれは、進学や結婚など、人生の節目になってよく思い出される言葉ともなった。
普通でいいーー藤沢作品のキーワードであるとも思う。氏は、下級武士や市井に生きる人々の宿す、矜持や信義や哀歓の(微光)を描いた作家だった。文学的情念を形づくったものは、生来の形質であり、半生の歳月であろうが、その背後に故郷の風土があったことを改めて思うのである。

この「普通でいいんだ」とう言葉。東北の被災者の方々の今の心境を言っているような気がする。

2013年3月11日月曜日

あらためて 3・11


葉で開業している、旭医師(精神科医)は震災で陸前高田市に支援に行ったことを「震災」のなかで書いている。そのなかで「ボランティア」の部分を紹介する。

精神科医でスタートしてもうすぐ四十年が経ちます。精神科だけでなく、リハビリなど、いろいろとやってきたなかで、非常に心に重く残っているのは、現実に自分が診ていた患者さんが自殺してしまったことです。開業したばかりのことですから、私が三十六歳頃のことです。自分が関わった患者さんの自殺というのは、医者としては非常にきつい経験です。外科のドクターが自ら手術した患者さんが亡くなってしまったらきわめて大きなショックを受けるのと同じように、心のケアに関わっていながら、それがうまくいかないで自殺につながっていったというのは、医者としては大変な敗北感があるわけです。そういう経験から、自殺を食い止めるために何かできることはないだろうかと、もう長年考えていました。
なんとか自殺者を減らそうと考えてきたことが、たまたま今回の震災をきっかけに、心のケアが非常にクローズアップされてきて、世間に少し受け入れてもらえそうになってきました。巡回型の心のデイケアについては、地元の松戸で十年ぐらいかけてやろうとしていたことですが、平常時なら、十年かかるかもしれないことが、数年でできるかもしれません。
過去の歴史を見ると、日本は大きい災害、前の関東大震災にしても、東京大空襲にしても、大変な状況をバネにして、いろんなことをうまく乗り越えているように感じます。今回も、この震災で奪われるだけでなく、得られるものがあるといいと思います。
私はこれからも何度も陸前高田に通うつもりです。それは、「仕事か、仕事以外か」といえば、ボランティア活動と考えています。ボランティアというのは他人のためにやるわけじゃないんです。自分のためなんです。みんなボランティアの意味をはき違えて、「困っているところに行ってあげれば、自分がこういうことをやれば皆さん喜んでくれるだろう」と思うのかもしれません。しかし、それでは長続きしないでしょう。
自分が行って、何かしたことが、他人の喜びであるとともに、自分の喜びにつながるようなものが本当のボランティアだと思っています。たぶん若い人もいろんな不満がいっぱいあるでしょうが、被災地にたくさんのボランティアが集まるとすれば、彼らがそこに何か活路を見いだしている部分もあるんじゃないかと思います。それが今日本人自体に失われつつあるものを見直す一つのきっかけになるかもしれません。
だから、私も、ボランティアとして参加して、自分自身の中に何かが見つけられることを目標に、活動を続けていきたいと考えています。
(インタビュー・構成新潮社取材班)
ボランティアとは、自分の喜びにつながるというのが本当のボランティアである。この言葉を常に頭の中に入れておきたい。3・11以後も3・11は続く。

2013年3月8日金曜日

正しい情報


東洋経済の連載「知の技法」(佐藤優)の第284回は「正しい情報を身につけるための技法」は参考になる。以下、概要を紹介する。
「どうやれば正しい情報を得ることができますか」という問に対して
率直に言って、この質問に対して答えることはできない。まず、質問者がどのような情報に関心を持っているのかがわからない。さらに、「正しい情報」を得るために、どの程度の時間と費用をかける用意があるかがわからない。だから、具体的な回答をすることは不可能なのである。
結論を先に述べるならば、新聞を正確に読み解く技法を身に付ければ、かなり「正しい情報」を身に付けることができる。池上彰氏の手法は、新聞を丁寧に読み解くという、戦前、戦中の日本陸軍参謀本部や満鉄調査部で行っていた文書諜報の伝統を継承している。だから、筆者は、情報収集に関心を持つがっついた若手ビジネスパーソンには、池上氏の手法を「盗む」ことを勧める。
「池上氏の説明は、教科書や新開に書いてある通説ばかりで、深みがありません。もっとディープな情報を知りたいのです」ということを言う人がよくいるが、このような発想だといつまでも情報力が身に付かない。
深く専門的な情報は、教科書に書いてある通説を熟知している人しか得られないのである。耳学問でいいかげんな知識しか持っていないと大きな過ちを犯すことがある。
ネットで人気でも国民の支持があるとは限らない
さらに新聞・テレビなどの既成メディアとインターネットの関係に関する池上氏の洞察は優れている((ネットで人気だからといって、国民的な支持率があると勘違いしないようにしてください。小沢(一郎)さんの熱狂的な支持者が50人いたとして、その50人が「小沢さんはすごい」と1日に3回ぐらいずつネットに書き込んだとしたら、どうなるか。とても盛り上がっているように見えますね。しかし現実は違う。
その意味で残念なのは、ネット利用者が、自分がネットを利用して感じている感覚と世論調査がズレて、「マスメディアは偏向報道している」「世論調査も自分たちにとって都合のいいようにしているだけだろう」と言い出すことです。これはとても残念なことであり、不健全な考え方です。日本のマスメディアは、世論調査にバイアスをかけるような、つまらないことはしません。ネットの利用者は、まず、「自分たちの方が少数派なんだ」という自覚を持つことが大事です。)
池上氏の考察は正しい。ここでなぜ、池上氏が事態を客観的に認識することができるかについて考えてみょう。多くの人が「ネット世論とマスメディア、特に新開の論調が乖離している」という印象を漠然と抱いているのに対し、池上氏はそれをまずいくつかの小命題に分ける。具体的には、「小沢一郎氏に対する評価について、ネット世論はどのように形成されるか」「新開やテレビの世論調査は、統計学的に見て妥当な方法でなされているか」「新聞社やテレビ局が編集権を行使して世論調査の結果を歪曲することがあるか」「新聞社、テレビ局の社論は、世論調査を無視して形成されるか」などの小命題に分けて、それぞれ答えを出したうえで、それを総合して池上氏の見解を打ち出しているのである。池上氏の問題解決へのアプローチは、近代の知識人が取る定石である。
今、ネットの情報をあたかも真実のように捉えがちである。日本では、まだまだネットの過激な情報はマイナーであることを肝に銘じておくべきである。新聞の情報が全て正しいわけではない。しかし、新聞の情報をしっかり読まないで、ネット情報だけで判断すると大きな過ちを犯す。

2013年3月6日水曜日

3・11 陸前高田


 いつでも元気3月号の巻頭エッセイに、県立高田病院院長の石木幹人のエッセイが載っている。彼は、病院で震災に会い、職員、患者さんを亡くした後も、病院復旧のために頑張っている。エッセイの中には書かれていないが、彼は妻を震災で亡くしている。以下は、以前にも紹介した「復旧」という本の中で紹介されている一部である。
岩手県陸前高田市 石木幹人
自分も医者になって良かったと思うのは、死ぬことに対してあまり恐怖感がなくなったこと。だからこそ、積極的に生きられるようになっているのかもしれませんね。
定年退職するまでにはあと二年。それまでにやっておきたいことは、やはり病棟の立ち上げです。病棟を立ち上げて、きちんと新しい病院の目鼻をつけるということが自分の果たすべき役割でしょう。それは陸前高田市の医療というだけでなく、気仙圏域全体を考えても、高田病院が病棟を再開することで、住民を支える医療を持続する基盤になればと思うからです。
もとの建物があったところは、地盤も1メートルほど沈下したと聞いています。今回のような津波が来ても、被災しない場所というのが絶対条件で、そこにまず仮設であっても病棟を立ち上げたい。その先にどういう病院にしていくかというビジョンも見えていくのではないでしょうか。その間に若い先生がうまく二人くらい入ってきて-れたら良いですね。そうすれば、私も安心して次の世代にバトンタッチできますから。
震災直後から救護所に入って、手伝ってくれている若い先生がいます。盛岡の中央病院からの2派遣ということで、この春から内科医が一人増えることになりました。実を言うと、それはうちの娘なんですよ。
(インタビュー・構成 歌代幸子)
医療のないところに人は残らないと言って、踏ん張っている。そんな父の姿をみて医師である娘さんも一緒に、医療再建に向けて働く。すごいことだと思う。

2013年3月4日月曜日

ボックスシート


 小説「すばる」を図書館より借りる。小説の月刊誌は結構あるが、毎月購入してまでは読んでいない。県立図書館も新築となって、月刊誌も充実してきている。「すばる」の中で、評論家の川本三郎氏のエッセイを紹介する。
ロングかボックスか 
客車の座席の形には大別して、よく知られるように、ロングシート、ボックスシシート、そしてクロスシートの三種類がある。
東京都内を走る性とんどの電車(地下鉄も含め)はロングシート。大量の通勤客を運ぶためにはこの形が効率的だからだろう。
ボックスシートは、地方を走るJRに多く見られる。昔ながらの四人掛け。旅に出た時にボックスシートの列車に乗ると懐しい思いがする。昔の長距離列車はほとんどがこれだった。夏目激石「三四郎」の青年も、志賀直哉「網走まで」の「自分」もボックスシートに座っている。
クロスシートは新幹線や特急列車に見られる。進行方向によって座席の向きが変えられる転換式が多い。
この三つの型でどれがいいか。
無論、時と場合によるだろう。普段の暮しのなかではロングシートで支障はない。もうそれが当り前になっている。旅に出た時は、ボックスシートかクロスシートがいい.
車窓の風景を楽しめるから。
東京都内を走る私鉄でも東横線や京浜急行にはロングシートが大半を占める車両の隅にボックスシートが設けられているものがある。京急は距離が長いためだろう。ただロングシートが主の車両でボックスシートにはなかなか座りにくい。とくに混んでくると居心地が悪い。ボックスシートの良さは駅弁が食べやすいことだが、東横線や京急のボックスシートで駅弁を食べる人はまずいないだろう。
旅気分を味わうにはボックスシートに限る。東京の近場でこれを楽しめるのは高尾から出る中央本線の各駅停車(大月行きや小淵沢行き)と、高既川から高崎に行く八高線の1部。
昔ながらのボックスシートを残している。どちらも本数が少ないのが難だが、平日は空いていて四人がけの席に一人しかいないことが多い。甲州や秩父の山里の風景を見ながら本を読んだり、駅弁を食べたりする。近場だが、旅に出た気分になる。

中央線は、今でも結構「ボックスシート」が残っている。私も、電車で通勤する場合は、ほとんど「ボックスシート」である。(韮崎ー甲府)
最近の「ボックスシート」は、4人がけであるが1人か2人しか座っていない。荷物を横に置いたり、大きな人が座っていたりして、座り難い。昔のように、面と向かって、知らない人同士の会話もない時代になってきている。たまには、「ボックスシート」の鈍行で松本まで行くのもいいなあ。