2013年3月21日木曜日

再び流民

 
河北新報の連載で 再び流民となりて 旧満州移民と原発避難 未来の人へ/「新天地開く気概を
は人生で2度流民となった人のインタビューを載せている。一部紹介する。
<苦難生き抜く>
「長生きしなさいよ。あんたは命の限り『津島を元に戻せ』と国や東京電力に叫び続けなければならん。国策被害の生き証人だ」福島第1原発事故で福島県浪江町南津島から二本松市の仮設住宅に避難する大内孝夫さん(79)を、同市に住む友人の佐藤常義さん(80)が訪ねてきた。
旧満州(現中国東北部)開拓団での幼なじみ。苦難の逃避行を一緒に生き抜いた。帰国後、大内さんは津島に再入植した。佐藤さんは10年ほど職を転々とした後、バス運転手に落ち着いた。
以前から会っては戦中戦後の苦労や近況を語り合う仲だった。最近、話題はどうしても原発事故に結び付く。
「関東軍も満鉄(南満州鉄道)も頭がいいのはソ連参戦前に家族を帰国させた「残った連中も特別列車ですぐ逃げた。官舎や社宅はガラガラだった「原発事故も同じだ。関係者の家族にまず情報が入った」
「日本は満州でひどいことをした。俺たち子どもでさえ、腹が減ると中国人の家に乗り込んで『ギョーザ出せ』だもの「中国の恨みは百年じゃ消えん。平謝りすることはないが、反省しないと「あんたも原発で家を取られた。もっと怒れ
二人の会話が続く。佐藤さんが語気を強めた。
「日本はいつもこうだった。戦争、公害、原発・・・。発展のために無理をして誰かが犠牲になる。二度あることは三度あるぞ。孝夫君、気をつけろ」。大内さんは笑って聞くだけだ。
旧満州引き揚げと原発事故避難、どちらが大変なのか。「原発だな」。福島県葛尾村から同県三春町に避難する岩間政金さん(87)は答えた。
なぜだろう。原発事故では避難所があり、食事が提供された。仮設住宅も建てられた。賠償もある。旧満州では寒さと飢えが多くの命を奪った。
岩間さんも「避難自体は今の方がずっと楽だ」と認める。「だがな」と語り始めたのは、原子力災害の特殊性だ。
<終わり見えぬ>
「山の木一本、菜っ葉一枚採れないのが悔しい。放射能は厄介だぞo戦後はやる気さえあれば何でもできた。今度は避難がいつ、どう終わるか見当もつかん」と嘆く。
犠牲者も実は多いと言う。「仮設では年寄りがずいぶん死んでる。冬になると連日葬式だ。葛尾で日なたぼっこしていれば、もう少し長生きできたろう。かわいそうに」
カネやモノだけで人は生きていけない。開拓者の岩間さんにとって、仮設住宅の生活は「芸が使えない」不完全燃焼の場だ。若者には「早く新天地を探せ」とよく話す。「世界は広い。放射能があるだけに村に帰れとは言えない。新しい仕事も12年根詰めれば一人前だ。俺たちの苦労を思えば簡単だわい」
自身は一日も早く葛尾に帰るつもりだ。「もう人生は終わり。何をしようにも間に合わない」。国策の過ちで2度、すみかを追われた。もはや消えゆく身。多くは望まない。願わくは現在の避難者が将来、再び流民にならないことを。 (福島総局・中島剛)
「日本はいつもこうだった、戦争、公害、原発・・発展のために無理をして誰かが犠牲になる。2度あることは3度ある。気をつけろ」という言葉は説得力があり、悲しい。国、東電は責任を取らず、結局「絆」という悩ましい言葉で、自分たちで再起しろと言っている。全国紙がこのような連載をして欲しいものだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿