2013年3月25日月曜日

震災のこと 渡辺えり

 
 3・11を心に刻んで(岩波書店)から、俳優「渡辺えり」さんの文章を紹介する。
東北にあれだけの被害があったというのに、この東京の暮らしに不便がないことを不思議に思う。あれだけの人たちが亡くなったというのに、私が今、時々笑ったりしながら過ごしていることを不思議に思う。
あれから、山形に帰郷する回数が増えた。山形は東北でも地震の被害が少なく、原発事故後も奥羽山脈が放射能の風を遮った。山形市は被災した地区には車で二、三時間という距離なので、そこを拠点に瓦礫撤去や炊き出しのボランティアができた。
友人のミュージシャンや劇団員たちを募り、避難所でのコンサートや絵本の朗読、そして炊き出しや生活用品の寄付などを行った。
津波と原発事故の両方の災害で南相馬市から避難されて来た方たちが、山形市の避難所に多くおられた。炊き出しに礼儀正しく整列し、「すみませんね。ありがとうございます」と頭を下げる姿に胸が詰まった。自分たちは何も悪いことをしていないのに、こんなにも頭を下げ、ボランティアに対して感謝の気持ちを表している。子供たちにと思い持っていった絵本やぬいぐるみを、年配の方々も喜んで下さる。すべてが津波にさらわれてしまったため、記憶の中の絵本をまさぐりたい思いが強いという。そしてぬいぐるみをしっかと抱く熟年の男性たちもおられた。
もし自分ならどうしたであろう? 自分を表すものがすべてなくなるという感覚。自分というものの存在を示す記憶の鏡がすべて消えてしまう。物だけではない。温かな、生きていた身近な人たちも永遠に消えてしまう。そして、そうした体験をした直後に避難した不慣れな場所で、知らない方たちと共同生活を余儀なくされ、我慢に我慢を強いられているのに、頭を深々と下げてお礼を言うのだ。そんなことが私にできるのだろうか・・・?
子供と離ればなれのまま地元から派遣され、避難所の看護師をしている若い看護師さんたちもいた。笑顔を絶やさず、自分の生活のことは語らずに奉仕する。看護師さんたちも被災者なのにである。一緒にご飯を食べている時に、思わず号泣なさった看護師さんが忘れられない。東京から来た私の質問に、初めて「辛かった」と言えた時だった。一緒に来た人たちには自分の辛さは言えない。みんな同じように辛いからである。被災していない私にやっと泣けたという。
いつもいつも自分より相手のことを考えているそんな方々を私は尊敬する。これは津波の被害が甚大だった名取市の体育館の避難所でもそうであった。毎日の化粧が楽しみだった年配のおしゃれな山田さんは着物も化粧品もすべて流され、すっぴんで過ごす日々がつらかったけれど、一命を取り留めただけでも幸せと思おうと決意した日から笑顔を絶やさないのだとおっしゃった。そして私に貴重な飴を差し出し「頑張って!」と握手するのである。そして「ありがとう。ありがとう」とみんなが集まって来てくれる。最後の歌のあいさつをした時、「ええ?もう終わりなの?まだ帰らないで」とみんなが瞳を少女のように輝かせるのである。
自分に一体何ができるのか? これは偽善ではないのか?を取り除くことなど私にはできない。自分はこれだけのことをしたのだと自分に言い聞かせたいだけなのではないか?石渡小学校の避雑所で私の腕を掴んで泣いていた年配の女性たち。「津波のお陰で渡辺さんに会えた・・・」と冗談を言って笑ってくれた女性。段ボールの中の子供たち。

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