2013年5月31日金曜日

立憲主義とは

 
日新聞の月刊「ナルホドリ」から、憲法のQ&Aを紹介。
憲法は普通の法律とどこが違うの?
国民が権力を縛る最高法規 変更の手続き厳しく
憲法とは、国を治める基本を定めた「ルール」で、普通の法律とは違います。法律は選挙で選ばれた国会議員が国会で作りますが、憲法は国民が自ら作るものと位置付けられています。憲法は「最高法規」といわれ、法律よりも変更する手続きが厳しくなっています
Q なぜ憲法は国民が自分で作るの?
A 「主権者である国民が国家権力を縛り、国民自身の自由と権利を守る」という考えに基づいているからです。これを「立憲主義」といいます。国民が国家権力を縛るための道具として憲法を作るのです。
Q 立憲主義はどこで始まったの?
A 13世紀のイギリスで、国王に対し貴族らが自分たちの権利を認めさせる誓約文を取ったことが起源とされています。そこから「全ての人は生まれながらにして自由で平等」というルソーやロックの「自然権思想」の影響を経て177年のアメリカ独立宣言、そして1789年のフランス人権宣言に行き着きます。人権宣言の16条には「権利の保障が確保されず、権力(司法、立法、行政)の分立が定められていない社会は、すべて憲法をもつものではない」と記されています。憲法という名を使っても、権利の保障や三権分立を定めていなければ憲法ではないとの意味で、世界各国の憲法に影響を与えました。
Q 日本にも聖徳太子の時代に「十七条憲法」があったよね。あれも日本国憲法と同じ憲法なの?
A 十七条憲法は名前に「憲法」は付きますが、権利の保障や国家権力を制限する規定がないので、立憲主義の憲法とは言えません。現憲法の前にあった大日本帝国憲法は立憲主義の憲法ですが、主権者は国民ではなく天皇です。国民の権利は生まれながらにして認められるものではなく、天皇が国民に与えたものでした。権力の制限も不十分で、軍部の暴走を許し第二次世界大戦へと突入していきました。戦争は「究極の人権侵害」とも言われます。
Q 憲法って大切なんだね。
A そうですね。だから日本国憲法は、普通の法律よりも変えることが難しくなっています。
「立憲主義」とは:政治権力の恣意的支配に対抗し,権力を制限しようとする原理をさす。1789年のフランス人権宣言16条〈権利の保障が確保されず,権力の分立が定められていないすべての社会は,憲法を有しない〉は,その簡潔で端的な定式化として知られている。

2013年5月28日火曜日

憲法改正草案

 
自民党の憲法改正草案Q&Aで日本国憲法の前文を「ユートピア的発想による自衛権の放棄」と批判する自民党。同党の日本国憲法改正草案前文では、戦争への真摯な反省や平和的生存権が消え去り、主権者である国民でなく天皇を中心とした国家が出現する。これが民主国家の憲法といえるのか。
週刊金曜日の412日号で弁護士の伊藤真氏は徹底批判している。一部紹介する。
憲法前文は、憲法の顔である。誰が何のためにこの憲法を制定または改正したのかを明示することによって、その国の基本的な有り様を示し、各本条での解釈に疑義が出たときに、解釈の基準となるものである。
自民党の改正草案では、どこにも改正の理由や改正憲法の由来が示されていない。何故に多くの重要な条文を変更したのか、何を目的とした改正であるのかが判然とせず'前文の役割を十分に果たしていない。
むしろ、第五段で「国民は()この憲法を制定する」として、新憲法制定と位置づけている。内容も、国民主権の後退、人権保障の形骸化、非暴力平和主義との決別など現行憲法とはまったく異質なものとなっている。よって、新患法制定と呼ぶのがふさわしいのであろう。しかし、憲法は国会議員に憲法制定権を与えていない。国会議員は主権者ではないからである。このような内容の改憲が実現するのであれば、これは一種のクーデターである。
草案の内容は、一言でいうと、「個人の人権を守るために国家を縛るための憲法」から「為政者が国民を支配するための道具としての憲法」に変質させるものとなっている。近代立憲主義という人類の英知からの決別といってよい。日本における立憲主義は、明治憲法時代への反省から、天皇の権力に歯止めをかけ(第一章)、軍事力を縛る(第二章)ところにその本質があるが、改正案はどちらも骨抜きになっている。そのことが前文でも明らかになっている。天皇中心の国家を強調し、戦争への真撃な反省のかけらもない。
従順な国民だけが歓迎され、主体的に考え行動する国民は排除される。こんな息苦しい国にしようとしているのである。私たちは主体的に、この草案に立ち向かっていかなくてはならない。

2013年5月24日金曜日

尊い偽善

 
 アーサー・ビナードのエッセイはどれも面白い。今回は「尊い偽善」を紹介。
欧米では、イタチの仲間の「オコジョ」が、高貴な動物として扱われる。同時に、その毛皮が珍重され、ヨーロッパのハンターたちはむかし、一風変わった猟の方法を用いたという。まず人間の汚物をバケツか何かに入れて、オコジョの巣穴まで運び、その入り口にたっぷりとこすりつける。それから猟犬を放つ。
森に出かけて生活の糧を得ようとしているオコジョは、猟犬に発見されれば、素早く逃げて巣穴に潜り込もうとする。ところが、入り口の汚物に気づくと、体を汚すことをいやがり、向き直って犬と戦う。そして決まって殺され、毛皮は剥がされて、だれかの上着になる。
この逸話が紹介されるときは、たいがいが教訓としてだ。「人間もオコジョを見習い、いかなる場合でも自らの信用と名誉を汚すような行いを絶対に避けるべきである」といった具合に。しかしオコジョにしてみれば、迷惑な話だ。ほめられているようでいて、汚い手口を使った猟師への咎めはなく、乱獲の歴史にも触れられない。この潔い生き物を保護しようという議論へも、発展してはいかないのだ。
一九四三年八月十六日、上野動物園に二十七頭の猛獣の「殺処分命令」が下った。戦時下、「動物たちの餌の調達が困難になった」や「空襲によって檻が壊れたら脱出の危険がある」など、それらしい理由が挙げられたが、実はこれも教訓話のでっち上げを狙ったPR作戦だった。
疎開という手もあったのだ。園長代理の福田三郎さんは、象のトンキーと花子と、豹の赤ちゃんを助けようと、仙台の動物園に頼み、疎開の承諾を得ていた。なのに、上官はそれを却下、なにがなんでも殺すことを、上から強いた。毒殺したり、首を絞めたり、槍で刺したり、餓死させたり。
仙台に行かせたのでは、プロパガンダとしての利用価値がなくなってしまう。全頭の処分がまだ済んでいなかった同年九月四日に、みな「時局捨身動物」と命名され、尊い犠牲を請えるための慰霊祭が催された。人間についても、「尊い犠牲」という言葉が使われるとき、鵜呑みにしてはならない。
時の政府が「尊い犠牲」という言葉を発する時は「尊い偽善」と読んだ方がいい。

2013年5月21日火曜日

メディアの堕落


521日付け「赤旗」一面は「テレビがおかしいぞ!」と報じています。
同じ論調の記事が民医連医療に畑田さんが書いているので紹介する。
メディアへの眼
首相とメディア・トップとの会食   国際政治学者 畑田重夫
昔から日本を代表する新聞とみられている「朝日新聞」を例にあげて、ちょっとある日の朝刊をみてみましょう。きょうは49日ですが、何と朝刊トップの大きな見出しは、「黒田相場世界リード東証13000円台/円一時99円台」です。
「黒田相場」とはいうまでもなく、安倍内閣になってからさんざん議論された末に日銀裁に就任した黒田東彦新総裁のもと、思い切った金融緩和、つまり、お札をどんどん増刷する「デフレ克服策」推進の結果、円安はすすみ、株価はあがるという今日の市場の現状の総称です。
この一面トップ記事に典型をみるように、日本の巨大メディアをあげて「アベノミクス」といわれる安倍内閣の金融・財政・経済政策への手放しの礼賛一色といっても間違いではありません。
メディアのトップと会食する安倍首相
「朝日」「毎日」「日経」など中央5紙には、必ず総理の前日の行動日程が報じられます。たとえば、「朝日」では「首相動静」、「毎日」では「首相日々」、「日経」では「首相官邸」という欄です。46日の中央5紙朝刊の同欄をみると、たとえば「朝日」では「午後」の最後に「(6)52分、東京・内幸町の帝国ホテル、宴会場『楠』で日本テレビの大久保好男社長らと会食」とあります。
ちなみに、いわゆるローカル紙の場合は、知事や市長の前日の動静が細かく報じられるのが普通です。
首相とマスコミ各社のトップとの会食といえば、この間題について正確にして詳細に報道しているメディアでは、日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」の右に出るものはないでしょう。同紙316日付は、安倍総理が、TPP交渉参加表明について15日に記者会見をした後の動静を具体的に報じています。
その見出しは、次のようになっています。「フジテレビ会長と会食-NHK番組で長々インタビュー」315日、安倍首相はNHK番組でTPPを中心とするインタビューを行う直前まで、東京・芝公園のフランス料理店で日枝久フジテレビ会長と会食をしていました。それを終えて、公用車でNHKへ向かったのですが、右のフランス料理店から遅れて現れた日枝久会長の発言が興味あります。
日枝氏に対してあるメディア記者が、「憲法『改正』とか、維新とか?」の話題はでたかと質問をしたところ、日枝氏は、「聞けばよかったなあ、憲法『改正』、アハハハ。(首相の)NHK (出演)のために(会食は)1時間しかなかった」と残念がっていたというのです。「赤旗」紙は、「公約を裏切る交渉参加表明の夜に、高級料理店でテレビ局幹部と会食し、NHKニュース番組は長々とインタビュー時間を首相に提供。巨大メディアと権力の癒着を見た一夜でした」と報じています。
テレビが、自民党「安倍首相」に買収されていると言っていいほど、安倍政権の「拡声器」となっている。本当に怖い。

2013年5月15日水曜日

どっちもどっち世論

 
 アーサー・ビナードのエッセイから又紹介する。
どっちもどっち世論
衆議院選の「激戦区」として、マスコミに大いに騒がれている土地に住む友人と先週会い、やはり選挙の話になった。「ヨロシクオネガイシマスの連呼に加えて、珍しく世論調査の電話もかかってきた」と彼女は苦笑いをして、こう続けた。「でもその質問が、みんななにか微妙に偏ってる気がして、わたし途中から本当のことをいうのをやめてデタラメに答えちゃったわ。調査の誤差を、どのぐらい増やしたかしら」
ぼくが投票権を持っているのは米国だが、日本よりもっと多くの世論調査が実施され、その偏り具合も先をいっている感じだ。「賛成」か「反対」か、「支持」か「不支持」か、「A氏」か「B氏」か。企業も政治団体も絶えず問いかけるその作戦の大きな目的は、二大政党の現状維持だ。国民に二者訳一のシャワーを浴びせ、議論が深まらないようにしむけ、選挙が近づけば、「共和党」と「民主党」とどっちがいいかと盛んに聞く。他の候補者がいても、どうせ勝ち目がなく捨て票になるだけだという雰囲気を、国中に漂わせる。
その結果、毎回「ハンバーガー」と「チーズバーガー」のどっちかを選ぶような、食傷し切った後味最低の投票となる。料理は種類がいろいろあっていいはずなのに。日本における二大政党への流れを、「民主主義の成熟した形」などといって、耳に聞こえがいいが、米国人と.しての体験からいうと、「民主主義の行き詰まりの形」だ。
 上そんな袋小路から抜け出せない無力感を、ウィリアム・スタフォードは、詩に詠み込んだ。
米国民であること
ある大手マスコミが歴史を買ったらしい
戦争とかけひきの独占権をすべて。
ぼくら国民は、いつものように家にいて、
何も起こらない。当然か。ぼくらは
ため息を漏らす。きっとどこかで
時代は本当に息づき、輝いているはずだ。
もし金持ちだったなら、ぼくらも
あんなふうに生きられたろう。
ひょっとして今からだって、
今日という日の一株くらい
買えるかもしれない。気分だけでも。

 日本も、アメリカと似たり寄ったりである。

2013年5月13日月曜日

青年の流儀

 
 集院静の「伊集院静の流儀」という本(エッセイ)を読む。いろんな雑誌に書いたエッセイをまとめた本である。似た名前で伊集院光というタレントがいるが、彼とは全く関係はない。両氏とも本名ではないが。その中の一つを紹介したい。新社会人に向けたエッセイである。
その仕事はともに生きるためにあるか。(青年の流儀)
新社会人おめでとう。
君は今春、どんな仕事に就いただろうか。どんな仕事、職場であれ、そこが君の出発だ。
今、世界は経験したことのない不況にある。金を儲けるだけが、自分だけが、富を得ようとする仕事が愚かなことだと知っていたはずなのに、暴走した。なぜ止められなかったのか。それは仕事の真の価値を見失っていたからだ。人を騙す。弱い立場の人を見捨てる。自分だけよければいい。それらは人間の生き方ではないと同時に仕事をなす上でもあってはならないことだ。仕事は人が生きる証しだ、と私は考える。働くことは生きることであり、働く中には喜び、哀しみ、生きている実感がたしかにある。
だから出発の今、真の仕事、生き方とは何かを問おう。
その仕事は卑しくないか。
その仕事は利己のみにならないか。
その仕事はより多くの人をゆたかにできるか。
その仕事はともに生きるためにあるか。
今何より大切なのはともに生きるスピリットではなかろうか。一人でできることには限界がある。誰かとともになら困難なものに立ちむかい克服できるはずだ。会社とは、職場とはともに働き、生きる家である。仕事は長く厳しい.が、いつか誇りと品格を得る時が必ずくる。笑ってうなずく時のために、新社会人の今夜はともに祝おう。
その日のため、皆で、 ハイボールで乾杯。
その仕事は・・の4つの文章は、なぜか民医連で働くものにぴったりした内容ではなかろうか。全て「イエス」と答えられる。

2013年5月10日金曜日

優雅な無知

 
 前回、紹介した「日々の非常口」(アーサー・ビナード)から、もうひとつエッセイを紹介する。
優雅な無知
「平和とは、どこかで進行している戦争を知らずにいられる、つかの間の優雅な無知だ」
アメリカの詩人、エドナ・セントビンセント・ミレーは1940年にそう書いた。ぼくが生まれたのは1967年で、アメリカとベトナムの戦争が激化の一途をたどっていた年だ。でも、ミシガンのわが家にナパーム弾はもちろん降ってこなかったし、物資の配給制もなく、およそ優雅な無知に包まれたままの幼年期だった。
ただ、どこかで進行中のあの戦争がちらりと見えた場面は記憶に残る。車の後部座席からぼくは、運転席の父と助手席の母の頭の後ろをじっと見ていた。だれかが戦死したという話をしていて、父は首を何度も横に振り、母もうなだれて、呟き声になる。
2004年の秋、初めてベトナムを訪ねた。統一会堂から戦争証跡博物館へ、歴史博物館へとホーチミン市内を歩きながら、前々から知っていた戦争の数字が、少しリアリティーを帯びてきた。戦死した58000人あまりの米兵の犠牲の重さは、アメリカにいるときでも感じられる。しかし、分かっているつもりでいても、300万人のベトナム人が殺されたという事実の重さには、これまでちゃんと向き合ってこなかったことに気づいた。
散布した枯れ葉剤の、7200万リットルという数字も、サイゴン川を海まで下ってやっとその一角が見えてきた。豊かな川の三角州の広大なマングローブを、米軍は不毛の泥の砂漠にした。戦後、ベトナム政府はそこを保護区に指定して植林を行い、今はマングローブが再生しつつあるが、その姿は枯れ葉剤散布という犯罪を、静かに告発しているようだ。
ホーチミンへ帰る車の中で、ガイドのフィさんがこういった。
「平和は、戦争をしたがる人の準備のための時間」
ホテルの部屋で、テレビを点けてみると、米大統領選の候補者の討論会が始まったばかりだった。イラク戦争が繰り返し何度も話題上り、1000人を超えた米軍側の犠牲者が天秤にかけられた。が、米軍に万単位で殺されているイラクの市民は、取り上げられることはなかった。
「平和とは、どこかで進行している戦争を知らずにいられる、つかの間の優雅な無知だ」 「平和は、戦争をしたがる人の準備のための時間」とは、うまい言い方である。日本人の発想からは出てき難い言い方である。確かに、無知ほど恐ろしいものはない。

2013年5月9日木曜日

もったいない話

 
日本人以上に日本人らしい「エッセイー」を書くアーサー・ビナードの「日々の非常口」という本を読む。そのなかの一遍を紹介したい。
もったいない話
ケニアの環境副大臣で、ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マ-タイさんが来日した際、「もったいない」という日本語に出会った。そしてその価値観に共鳴して、無駄な消費をいましめる国際語としてさっそく "mottainai "を使い始めた。すると、ほどなく「外国人から見た(もったいない)について」のインタビュー依頼が、ぼくのところにまで舞い込んだ。
封筒の再使用から箸の持ち歩き、鈴虫による生ゴミ減量まで、わが家で実施中の対策を記者に紹介して、日米のさまざまな無駄の比較もした。けれど一番取り上げてほしい、ぼくが何よりも心底もったいないと思っている事柄は結局、記事では割愛されてしまった。それこそもったいないので、ここに拾い上げることにする。
それは、古くなったからと、日本国憲法を捨てて新しいのに取り替えようという動きだ。イギリスの作家、チェスタートンは百年近く前、キリストが唱えた非暴力主義についてこう書いた。「キリストの理想が、実践に移された上で駄目だという結論が出たわけではない。その実践は、生易しいことじゃないと思われ、いまだにだれも本気で試していないのである」
同じことが日本国憲法についてもいえそうだ。今まで「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」、本気で外交に取り組んだ内閣はあっただろうか。古くて手垢がついたどころか、憲法九条はまだ新品同然だ。
米軍は二〇〇五年の使用予定分として、弾丸を十五億個購入したという。軍事予算とその関連事業に、アメリカ国民は毎年ざっと八十兆円の税金を吸い取られる。憲法九条は、少なくともそんな殺傷の数字から日本国民を守っているのだ。
日本国憲法を読み直して、フランスの詩人、シャルル・ペギーの言葉が頭に浮かんだー 「今朝ホメロスを読んでいて、なんとも新鮮で生き生きしている。そして、この世で最も古臭くて、手垢にまみれているのは、今日の新聞だ」。そう書いた一九一四年に、第一次世界大我が始まり、ペギーはマルヌの前線で戦死した。
7-8年前に書かれたエッセイだが、今書かれたような文章である。この時はまだ、96条改正などど言う、せこい手段は登場していなかったが。

2013年5月8日水曜日

作り手による「物語」

  
毎日新聞の「時代の風」に京都大学教授の山極寿一氏が「作り手による物語」と出して興味ある文章を書いている。一部抜粋して紹介する。氏は「ゴリラ」の研究家として有名である。
今もこうした誤解に満ちた物語が繰り返し作られている。9.11の後、アメリカはイラクが大量破壊兵器を持ち世界の平和を脅かすと決めつけて戦争を始めた。アルカイダはアメリカ人をアラブの永遠の敵と見なして自爆テロを武器に戦うことを呼びかけている。イスラエルとパレスチナも互いに相手を悪として話を作り、和解の席に着こうとしない。どちらの側にいる人間もその話を真に受け、反対側に行って自分たちを眺めてみることをしない。
人間は話を作らずにはいられない性質を持っている。言葉を持っているからだ。私たちは世界を直接見ているわけではなく、言葉によって作られた物語の中で自然や人間を見ているのだ。言葉を持たないゴリラには善も悪もない。自分たちに危害を加える者には猛然と戦いを挑むが、平和に接する者は温かく迎え入れる心を持っている。過去に敵対した記憶は残るが、それを盾にいつまでも拒絶し続けることはない。人間が過去の怨恨を忘れずに敵を認知し続け、それを世代間で継承し、果てしない戦いの心を抱くのは、それが言葉による物語として語り継がれるからだ。
言葉の壁、文化の境界を越えて行き来してみると、どこでも人間は理解可能で温かい心を持っていることに気づかされる。個人は皆優しく、思いやりに満ちているのに、なぜ民族や国の闇で理解不能な敵対関係が生じるのか。グローバル化した現代、私たちはさまざまな地域や文化の情報を手に入れることができるようになった。物語を作り手の側から読むのではなく、ぜひ多様な側面や視点に立って解釈してほしい。新しい世界観を立ち上げる方法が見つかるはずである。
言葉は物語をつくる。善も悪も両側面から物語をつくる。善、悪を見分けるためには、多様な側面や視点からのものを見ることが必要である。そのためにも幅広い知識が必要になってくる。そのためには幅広い書物から知識を得ることである。

2013年5月2日木曜日

憲法改正

 
毎日新聞の「時代の風」というコラムに中西寛京都大教授が以下の文章を載せている。概略を紹介する。
安倍晋三首相は最近、きたる参院選で憲法改正、なかんずく憲法改正に関する手続きを定めた96条の改正を争点にする意向を示している。自民党は改憲を党是としてきたのだから、改憲を掲げて選挙を戦うのはある味で潔い。
しかし憲法改正は具体的な条項の改正を巡って行われるのが本筋で、改正条項という技術的規定についての改正を提起するのは、国民にとって判断が難しい。世界的にも憲法改正条項だけの改正というのは恐らく例がないだろう。
言うまでもなく、護憲か改憲かというのは戦後日本政治の最大の争点である。もちろんその中心には、憲法9条をめぐる対立があった。私自身は、憲法9条に関する限り改憲論である。
憲法9条、特にその第2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という条項は、敗戦直後の日本が長期的に非武装状態に置かれること前提として制定されたものであった。
従って、護憲派か改憲派かと言えば私は改憲派ということになろう。しかし護憲、改憲のレッテル貼りには意味がないと思う。憲法を変える、変えないは目的ではなく手段である。変えることで良くなるなら変えればよいし、変えることで悪くなるなら変えるべきではない。
しかし自民党などが現在提起している改正条項の改正案の妥当性には疑問を抱く。憲法96条では衆参両院の総議員数の3分の2以上の賛成で改正を発議し、国民投票ないし国政選挙の際の投票での承認を要するとなっている。各院議員の3分の2という発議要件を半数に改めようというのが改正案である。しかしこれでは現状から考えて改正が容易になりすぎるのではないだろうか。両院の過半数というなら、出席議員の過半数で採決される通常の法律の採決にかなり近づく。
国民投票の要件はあるが、1度も憲法改正が行われたことのない現状で考えると国民投票は大事のように思えるが、憲法改正の発議が繰り返されると改正支持者以外の投票率が低下してしまうことも予想される。そうなると憲法改正がほとんど普通の法律なみの容易さで実現することになる。
それ以上に懸念をもつのは政治家が憲法を含めた法律を取り扱う能力である。侮辱するなと叱られそうだが、よい例が中選挙区から小選挙区比例代表並立制への選挙制度の移行である。中選挙区制の時代を知る世代の議員で、小選挙区制への移行がよかったという声は圧倒的に少ない。それではどうして賛成したのかと問うと、要するに「雰囲気」に流されたということのようである。その時と今と比べて、制度や法律に関する見識で今の政治家は格段の進歩を遂げたと自信のある政治家は果たしているだろうか。
 後になって「あの時は雰囲気で憲法を変えました」と言われては国民も立つ瀬がないだろう。

キーワードは以下の3点である。
①安倍首相の躁状態のような雰囲気の中で、憲法改正がされたのではたまらない。
②世界的にも憲法改正条項だけの改正というのは恐らく例がないだろう。
両院の過半数というなら、出席議員の過半数で採決される通常の法律の採決にかなり近づく。
後になって「あの時は雰囲気で憲法を変えました」と言われては国民も立つ瀬がないだろう。
安倍首相の躁状態のような、雰囲気の中で「憲法改正」がされたのでは国民はたまらない。いまこそ、行動あるのみ。