2013年5月24日金曜日

尊い偽善

 
 アーサー・ビナードのエッセイはどれも面白い。今回は「尊い偽善」を紹介。
欧米では、イタチの仲間の「オコジョ」が、高貴な動物として扱われる。同時に、その毛皮が珍重され、ヨーロッパのハンターたちはむかし、一風変わった猟の方法を用いたという。まず人間の汚物をバケツか何かに入れて、オコジョの巣穴まで運び、その入り口にたっぷりとこすりつける。それから猟犬を放つ。
森に出かけて生活の糧を得ようとしているオコジョは、猟犬に発見されれば、素早く逃げて巣穴に潜り込もうとする。ところが、入り口の汚物に気づくと、体を汚すことをいやがり、向き直って犬と戦う。そして決まって殺され、毛皮は剥がされて、だれかの上着になる。
この逸話が紹介されるときは、たいがいが教訓としてだ。「人間もオコジョを見習い、いかなる場合でも自らの信用と名誉を汚すような行いを絶対に避けるべきである」といった具合に。しかしオコジョにしてみれば、迷惑な話だ。ほめられているようでいて、汚い手口を使った猟師への咎めはなく、乱獲の歴史にも触れられない。この潔い生き物を保護しようという議論へも、発展してはいかないのだ。
一九四三年八月十六日、上野動物園に二十七頭の猛獣の「殺処分命令」が下った。戦時下、「動物たちの餌の調達が困難になった」や「空襲によって檻が壊れたら脱出の危険がある」など、それらしい理由が挙げられたが、実はこれも教訓話のでっち上げを狙ったPR作戦だった。
疎開という手もあったのだ。園長代理の福田三郎さんは、象のトンキーと花子と、豹の赤ちゃんを助けようと、仙台の動物園に頼み、疎開の承諾を得ていた。なのに、上官はそれを却下、なにがなんでも殺すことを、上から強いた。毒殺したり、首を絞めたり、槍で刺したり、餓死させたり。
仙台に行かせたのでは、プロパガンダとしての利用価値がなくなってしまう。全頭の処分がまだ済んでいなかった同年九月四日に、みな「時局捨身動物」と命名され、尊い犠牲を請えるための慰霊祭が催された。人間についても、「尊い犠牲」という言葉が使われるとき、鵜呑みにしてはならない。
時の政府が「尊い犠牲」という言葉を発する時は「尊い偽善」と読んだ方がいい。

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