2013年5月9日木曜日

もったいない話

 
日本人以上に日本人らしい「エッセイー」を書くアーサー・ビナードの「日々の非常口」という本を読む。そのなかの一遍を紹介したい。
もったいない話
ケニアの環境副大臣で、ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マ-タイさんが来日した際、「もったいない」という日本語に出会った。そしてその価値観に共鳴して、無駄な消費をいましめる国際語としてさっそく "mottainai "を使い始めた。すると、ほどなく「外国人から見た(もったいない)について」のインタビュー依頼が、ぼくのところにまで舞い込んだ。
封筒の再使用から箸の持ち歩き、鈴虫による生ゴミ減量まで、わが家で実施中の対策を記者に紹介して、日米のさまざまな無駄の比較もした。けれど一番取り上げてほしい、ぼくが何よりも心底もったいないと思っている事柄は結局、記事では割愛されてしまった。それこそもったいないので、ここに拾い上げることにする。
それは、古くなったからと、日本国憲法を捨てて新しいのに取り替えようという動きだ。イギリスの作家、チェスタートンは百年近く前、キリストが唱えた非暴力主義についてこう書いた。「キリストの理想が、実践に移された上で駄目だという結論が出たわけではない。その実践は、生易しいことじゃないと思われ、いまだにだれも本気で試していないのである」
同じことが日本国憲法についてもいえそうだ。今まで「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」、本気で外交に取り組んだ内閣はあっただろうか。古くて手垢がついたどころか、憲法九条はまだ新品同然だ。
米軍は二〇〇五年の使用予定分として、弾丸を十五億個購入したという。軍事予算とその関連事業に、アメリカ国民は毎年ざっと八十兆円の税金を吸い取られる。憲法九条は、少なくともそんな殺傷の数字から日本国民を守っているのだ。
日本国憲法を読み直して、フランスの詩人、シャルル・ペギーの言葉が頭に浮かんだー 「今朝ホメロスを読んでいて、なんとも新鮮で生き生きしている。そして、この世で最も古臭くて、手垢にまみれているのは、今日の新聞だ」。そう書いた一九一四年に、第一次世界大我が始まり、ペギーはマルヌの前線で戦死した。
7-8年前に書かれたエッセイだが、今書かれたような文章である。この時はまだ、96条改正などど言う、せこい手段は登場していなかったが。

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