2013年8月6日火曜日

東京新聞 社説 8月6日

原爆忌に考える 風立ちぬ、いざ文学よ
201386日東京新聞

 核の非人間性を広島から世界へ伝えた詩人たち。峠三吉没後六十年。書き継がれ、語り伝えられ、色あせることのない叙事詩。そして今3・11文学へ。
 広島市在住の詩人、御庄(みしょう)博実さん(88)は、ゆっくりと、壊れ物でも扱うように、横長の赤い冊子の表紙を開いて見せました。
 <贈呈 御庄博実様 風立ちぬ いざ生きめやも 峠三吉 一九五一・九・二三>
 か細い青い万年筆の文字=写真。「原爆詩集」の初版です。
 もう一枚開きます。
 あの有名な「序」は、ガリ版刷りの手書き文字のようでした。
 <わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ>
 わずか八行、すべて平仮名のそれを目にしたときの衝撃を、御庄さんは今も忘れられません。凝縮された怒りと悲しみが、体中を貫いていくような。
 岡山医大生だった御庄さんは肺結核で療養中に、同じ病を養う峠の詩に出会い、魅せられ、峠たちが創刊した反戦詩の同人誌「われらの詩」の編集に三号から参加した。
 病状が落ち着いて復学が決まり、広島の峠の家へあいさつに訪れたとき、インクのにおいが立ち上る「原爆詩集」を贈られた。刷り上がって三日目でした。
 八歳年上の峠を御庄さんは、兄というより姉のように慕っていたそうです。そう言われれば、「序」に表れた、まっすぐで強い怒りだけではない、全編を貫く<にんげん>へのやさしいまなざしが、詩の言葉に命を注いでいるように思えてなりません。
 肺結核は、当時死の病。血を吐きながら詩作に挑む日々。自らの病と命に向き合いながら、峠三吉は、理不尽に命を奪うものへの激しい怒りを、どうやって、やさしさに昇華させたのか。死を凌駕(りょうが)する詩の力というのでしょうか。

出版統制かいくぐり

 自費出版で五百部だけ印刷された小さな詩集は、連合国軍総司令部(GHQ)が報道や出版を統制したプレスコードの網をかいくぐり、版を重ね、広がった。
 <にんげんをかえせ>は一九七八年、ニューヨークの第一回国連軍縮特別総会でも朗読され、その韻律は世界の心を揺さぶった。
 「原爆詩集」が贈られたその日、二人は夜を徹して、文学のこと、平和のこと、病気のこと、そして命のことを語り合いました。
 御庄さんは、その夜、峠に「叙事詩ヒロシマ」を書いてほしいと迫ったことが、忘れられません。
 あの日広島で起こった出来事を、真実を、より具体的に、そして永遠に歴史に刻み込むような壮大な作品を。
 峠も興味を示していたそうですが、果たされず、峠三吉は二年後に三十六歳で亡くなりました。
 御庄さんは、今も叙事詩を書いています。先月末に出版されたばかりの詩集「川岸の道」。あとがきには、こうあります。
 <「歴史不在」のままに「原子力の平和利用」という言葉に呪縛されつづけて半世紀が過ぎた。僕たちはいま「生命」と「歴史」とに、飾りなく赤裸々に、真正面から向きあわなければならないのだ>
 ヒロシマの光景がフクシマのそれに重なって見えるのは、広島の時間が福島のそれに、つながっているからではないのでしょうか。
 御庄さんや峠だけではありません。栗原貞子の「生ましめんかな」が命の尊厳をうたい上げ、井伏鱒二や井上ひさしが原爆の罪の深さを告発し、「はだしのゲン」が子どもたちの心に平和の種をまき、「夕凪(ゆうなぎ)の街 桜の国」を戦争を知らない世代が描き継いで、そして
 <ヒロシマ文学>はそれ自体、長大な叙事詩なのではないか。だとすれば、ひと続きの歴史を踏まえ、その先に持続可能な未来の光を示すことこそ、このごろ目立って増えてきた<3・11文学>の役割なのかもしれません。

想像力を働かせねば

 例えば、いとうせいこうさんの「想像ラジオ」が「まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ」と嘆き、想像の翼を広げて、死者の声に耳を澄ませと、訴えているように。
 死期を知り、だが書き継がれる未来を信じて峠は、自著の扉に「風立ちぬ」と書いたのか。
 私たち読者も、想像力を働かせねばなりません。ともすれば歴史の底に沈んでしまう声なき声を拾い上げ、命の重さをくみ取って、自分なりの未来を思い描けるように、いざ生きめやも、なのです。








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