2014年8月26日火曜日

日本国憲法を世界憲章に


毎日新聞のオピニオン欄に「柳田邦男の深呼吸」がある。戦争と大量虐殺は「必然の倫理喪失」として以下のような事を書いている。一部紹介したい。
毎日新聞が折り込みとして発行している「ロシアNOW」の一面に「ロシア作家の戦争観」と題して、近現代の著名な作家たちが戦争というものをどのように見ていたか、その言説を著作の中から拾い上げて特集している。
それぞれの戦争観に戦争体験の有無や思想が投影されていて興味深いのだが、旧ソ連時代に反体制作家だったソルジェニーツィンは小説「煉獄のなかで」において、こう書いている。「いかなる戦争も解決にはならない。戦争は破滅だ。戦争が恐ろしいのは、火災や爆撃のためではなく、何よりも、自ら思考する者すべてを、愚鈍の必然的な暴力に追いやってしまうことだ・・・」
彼は第二次世界大戦で実戦を経験し、思想犯として監獄と強制収容所に放り込まれた経験も持つ。彼の小説はフィクションではなく、現実をリアルに描き出している。日常は考える力を持つ人間でも、戦場では「愚鈍」になり、その結果、「必然的な暴力」を振るう人間に変容してしまうという言説は、戦争について論じる時には、絶対に前提条件とすべきものだ。 中略
では、無防備の民間人の群衆を一斉射撃で殺りくするソ連軍兵士たちの心理や感情はどうだったのか。おそらく日常における正常な心理や感情とは異次元の状態になっていただろう。共産主義国家の兵士として、日本人であれば軍人だろうが民間人だろうが、掃討すべき資本主義・帝国主義の先兵として虫けら同様に踏み潰すべき存在に過ぎないのだ。
もはや一人一人が人生や家族のある人間なのだといった感情も理性も働いていない。私(一人称の命)でも、あなた(二人称の命)でも、彼・彼女(三人称の命)でもない単なる標的(無人称の存荏)でしかない倫理観の喪失。 中略
民族、宗教、イデオロギーの違いは、何とたやすく異民族、異教徒、対立思想の相手を無人称視してしまうことか。ソルジェニーツィンの言葉はまさに真実だ。人類の歴史とともに繰り返されてきたこの殺伐とした人間の暗部を超克するにはどうすればよいのか。紛争の解決手段としての武力を永久に放棄するという日本国憲法の思想を、何十年かけてでも世界憲章として普遍化すべく努力することを、今こそ日本の国是とすべきではないか。
一人称でもない、二人称でもない、三人称でもない単なる無人称の存在である命、なんたる倫理感の喪失。今のイスラム国の紛争はまさにこの状態だ。柳田氏はこれを打破するには日本国憲法の思想であると言っている。

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